性的でない暴力描写があります。ご注意ください。













ミシ・・・と、硬く握った拳の中でステンレス製の名刺ケースが悲鳴をあげた。



皮膚に食い込むその鋭利な角に、しかし痛みなど感じない。

全身の血が火に炙られたように沸き立ち、体中を暴れまわる。



いや、実際炙られているのだ・・・嫉妬と怒りの業火に。




だが佐伯は怒りしか分からない。

己の玩具を奪われた幼児のような稚拙な怒りしか。







御堂の家で名刺ケースを落としたことに気付いて取りに来た、マンションのドアの前。
観葉植物の陰で探し物を見つけたとき、話し声と共に御堂の部屋のドアが開いた。
咄嗟に物陰に隠れ、聞えた声は予想だにしなかった・・・しかし馴染みの声。
己の耳を疑いながら覗けば、その声の主・・・同僚の本多と、御堂が抱擁を交わしていた。

本多の逞しい腕に包まれた御堂が浮かべていたのは、一度としてみたことの無い、穏かで・・・満たされた、優しげな表情。
何度も己を押しのけようとしていた彼の腕は本多の広い背に回されて、やんわりとその身体を抱き返していた。

瞬間、湧き上がった衝動につけるべき名を佐伯は知らなかった。


(あれは・・・どういう、ことだ・・・。)


何故本多が御堂の部屋から出てきた?

それもこんな朝に。


そしてあの抱擁の意味は?


先週末、金曜の夜に御堂は帰らず、土曜に知らぬ香りをつけて帰ってきた。
あの朝帰りの相手が本多だったというのか。

ギリ、と奥歯が音を立てる。




(御堂・・・・!)




腹の奥でマグマが弾けた。




名刺ケースを投げ捨て、カードキーで目の前のドアを開錠する。
けたたましい音を立てて蹴破るようにドアを開け、床を踏み抜かんばかりの勢いで寝室へと迫る。
ガンッと音を立てて開いたドアの向こう、ベッドで眠っていた御堂が大きく身体を揺らした。

ドアが壁にぶつかる、尋常ではない音に跳ね起きた彼が、仁王立ちする佐伯を捉える。


「―――ッ!」


御堂の喉が引きつった音を立てた。
白い肌が蒼く、病的なまでに血の気をなくしていく。

己を見下ろす佐伯の顔には何時もの残酷な笑みも無く、ギラリと光る眼鏡の奥の瞳から、違えようも無い殺気が放たれている。

「っ、く・・・来るな・・・!」
御堂は戦慄く唇を動かしてそう叫んだ。
だがその声が引き金となったように、佐伯が動く。
常ならばここで、御堂の恐怖心と怒りを煽るための侮蔑的な言葉を吐いている彼が、全くの無言で迫ってくる。


何かが違う。
いつもよりも、おかしい。


御堂はベッドの上を隅に逃げようとしたが、それよりも佐伯が彼を組み敷くほうが早かった。
「ひっ・・・!」
また犯されるのだと思った。


だが、佐伯の手は御堂の服ではなく、首に巻きついた。


「―――やめっ・・・!」
ぐ、と気管が圧迫される。
渾身の力は、すぐに御堂から呼吸を奪った。
「ぐぅ、う、ッ、ッ、ッ―――!」
息が出来ない。
御堂はなりふり構わず、手を振り回して佐伯を引き剥がそうとした。
胸に、頬に、眼鏡に、容赦なくぶつかる御堂の手に、佐伯は何の反応も示さない。
一言も発することなく、狂気に支配された目で冷酷に御堂を見下ろしながら気管を圧迫し続ける。
脚をばたつかせ、身を捩じらせ、抵抗するうちに御堂は視界が狭まっていくのを感じた。

陸に打ち上げられた魚のように惨めに開閉する唇からはヒューヒューと不気味な音しか漏れない。


コロサレル。



死ぬ、のだろうか。



濁った血が顔に集まっているように感じる。
恐らくは赤黒い顔をしているのだろう。


御堂の手が佐伯から離れ、枕の上へ伸ばされた。



何かを掴もうと、震える手が彷徨う。





紫色の唇が、何度も同じ形をつくった。









 ―――― ん   だ
 









  ほ   ん   だ











「!」

咄嗟に、佐伯は指を外した。
「ッ、ゲホッ、ぐ、ッ、か、ハッ・・・!」
突如開放された御堂が身体を丸めて咳き込む。
大量の空気が流れ込み、過呼吸に陥ってゼェゼェと息をする彼を、佐伯は呆然と見下ろしていた。

(何故だ)



今自分は御堂を殺そうとした。

だというのに、御堂の頭を占めたのは、命を奪おうとしている自分ではなく、ここに居さえしない男。



(何故俺を見ない)

咳き込む御堂の前髪を掴んで乱暴に仰のかせる。
真っ赤な顔をして涙を流し、口元からは唾液を零しながら胸を喘がせる姿は酷く惨めだ。
だが、なんの高揚感も齎さない。
「チッ・・・」
舌打ちと共に御堂をベッドから蹴り落とす。
拘束具を取り出し、シャツを残して服を剥ぎ取るとベッド脇の出窓のポールへ手錠の鎖を通して御堂の手首を戒めた。
脚にも閉じられないよう棒が渡された枷を嵌める。
呼吸を妨げられたダメージからまだ立ち直っていない御堂はぐったりとそれを受けるだけで、抵抗の気配は無い。

必死で呼吸を繰り返すばかりで己を見ない彼に、また言いようの無い不快感が煮えたぎった。

佐伯は鞭で御堂の顎を持ち上げ、無理矢理に顔を上げさせた。
紫苑の瞳が漸く、彼を見る。
「あんた、まだ分からないみたいだな」
お前に逃げ場なんか無いんだ。
「俺に縋るしか、あんたに残された道は無いんだよ。」

あんたは俺のものだ。



「ふ・・・」

と、御堂が笑った。



目を瞠る佐伯を、強い意志を持った瞳が睨みつける。
「私はお前になど、絶対に屈しない。」
「・・・・なんだと?」
「殺したいなら殺せばいい。嬲りたいなら好きなだけ、嬲ればいい。だが、私は絶対に、貴様のものになどならない。」
鞭を持つ手が怒りで震えた。
「へ、ぇ・・・?随分本多に手なずけられたんですね?そんなに善かったですか、アイツのデカいモノは。」



また、御堂が笑う。

哀れみさえ感じられそうな目で佐伯を見ながら。



「お前には一生分からない。一生な。」








「はぁ、はぁ、ッ、は・・・」

寝室に、佐伯の荒い息だけが響く。
壁に拘束された御堂は白い肌に無数の鞭の痕を刻んで意識を失っている。
佐伯が握る鞭についた血が、彼に振るわれた暴力の残酷さを物語っていた。

その鞭が忌々しげに投げ捨てられる。



何度も何度も振り下ろした。

白い肌が裂けるほどに繰り返した。

噛み殺されていた呻き声が悲鳴に変わり、弱弱しい声になっても、御堂は佐伯に反抗し続けた。




最近は陵辱に耐えかねて、助けてくれと言うことも稀ではなくなっていたのに、それも無かった。
漸く折れそうになっていた、御堂の中に一本通った筋が、間違いなく強く立ち直っていた。




「本多・・・。」

地を這うように佐伯が呟く。




御堂に強さを与えた男。

御堂の視線を奪った男。



あの男の存在があるかぎり、御堂は己の下に堕ちてはこないだろう。






ならば





憎悪を滾らせた青い瞳が、意識の無い御堂を睨みつける。

薄い唇が残忍な弧を描いた。









「アイツごと、壊してやるよ・・・御堂さん・・・」








悪魔の笑い声が、逢魔が時の寝室に木霊した。














ドサッ、と何か大きなものを床に下す音を聞いて、御堂の意識が薄っすらと戻ってきた。
揺れる視界に、床に大きな何かと、部屋の闇に解けそうな黒い人影を見る。
黒尽くめの服を着た人間のようだ。
恐らくは先程の音を立てたものだろう床の塊をどうにかしようとしている。
黒い手が・・・革手袋だと少しして気付いた・・・床のものを掴む。
にゅ、と飛び出したように見えたのは人の腕だった。

(・・・な、に・・・?)

もう一本、腕が引き出された時点で、漸く御堂の意識が戻ってくる。

夕闇に沈む部屋に目を凝らせば、床に蹲っているのは人だ。



大柄な・・・青みを帯びた服・・・スーツを着た・・・茶色い髪の・・・。


「・・・ッ、本多!?」


驚愕に声が裏返り、頭上で手を繋いだ鎖が大きな音を立てた。
黒尽くめの人影がゆっくりと振り返る。

帽子を目深に被り、丸い縁の眼鏡をかけて長い金髪を編んだその奇妙な男は御堂の知らない人物だった。

佐伯ではない、だが、明らかに普通の人間ではない。
無意識に後ずさった身体が壁にぶつかった。
振り返った男がゆったりと笑う。
「おや、お目覚めですか?御堂孝典さん。」
詠ずるような声が、酷く不気味に響いた。
「お、まえは、誰だ・・・ッ、彼に何をした!?」
散々酷使した喉が痛むのも構わず声を荒げると、黒衣の男はまた笑みを深くして一度本多から離れ、御堂に歩み寄ってきた。
「く、来るな・・・ッ!」
得体の知れない空気が迫ってくるような気がして、御堂が鋭く制止の声をかける。
だが男は歩みを止めず、御堂の傍によると片膝をついて目線を合わせた。
「ふふ・・・そんなに怖がらないで下さい。私は貴方に危害など加えませんよ。
 あの方をここまで本気にさせる貴方に尊敬こそすれ、あの方のご命令でもないのに傷を付けるなどとんでもない。」
そういって、何が楽しいのか、また笑う。
そのうちに視線が御堂の肌を舐めるように降り始め、思わず視線を逸らした。
黒い革に包まれた指が、白い肌に血を滲ませた傷をついと辿る。
「ッ、う・・・!」
不意の痛みに噛み殺せなかった呻き声が漏れる。
反射的に目の前の男を睨むと、人にあるまじき色をした瞳がうっとりと細められていた。
「痛いですか?でも、とてもお似合いですよ?」
クスクスと笑う声が、生理的な嫌悪感を催す。
御堂は奥歯を噛んでそれをやりすごすと、もう一度男を睨み据えた。
「・・・質問に答えろ・・・、本多に何をした!」
「なるほど、お気が強いですねぇ・・・」
「貴様ッ!」
のらりくらりと追及をかわそうとする男に苛立って御堂が声を荒げると、手に負えない子供を見るような目で男が微笑んだ。

「別に危害を加えるようなことはしておりませんよ。少し眠っていただいただけです。あの方のお願いですから。」

さて、と言って立ち上がり、男は本多のほうへ戻ろうとする。
御堂は慌ててそれを引きとめようとした。
手は戒められて動かず、手錠の鎖がうるさく鳴っただけだったが。
「待てッ!本多に触るな!」
男は振り返らず、作業を再開する。

本多の手首に拘束具を付け、後ろ手に戒める。
次に首輪を取り出して彼の首にあてがう。

「まさか・・・そこに、彼を・・・」
御堂の声が掠れた。
御堂の正面に本多を拘束する・・・佐伯が考えそうなことであり、御堂にとっては最悪の事態だ。
蒼褪める御堂の前で、男は首輪から繋がる鎖を杭で床へ固定した。

「やめろ・・・っ、やめろ!本多を離せ!」

漸く男が振り返ったが、何も言わない。


御堂はその無慈悲な瞳を見上げ、一度強く唇をかみ締めた。
そうして、搾り出した。



懇願を。



「・・・たの、む・・・」



男が「おや」と言う様に目を瞠る。





「頼む・・・彼は・・・・・・本多だけは、こんな目に合わせたくない・・・私をどうしても構わない・・・だから、彼を、離してくれ・・・っ」





これはこれは・・・と、男――Mr.Rは微笑んだ。

佐伯克哉がこれを知ったら怒り狂うことだろう。
彼自身には何をされても言わない言葉を、本多が絡んだ途端、こうも容易く口にするのだから。

こういった時に感じる激情の名をまだ彼は間違えているようだが、Rは承知していた。


佐伯克哉は嗜虐の生贄以上の感情を御堂孝典に抱いており、同じ感情を返してもらえない事に苛立っているのだ。

そして、欲しくて溜まらないその感情を御堂が他の人間に向けたことに嫉妬の炎を滾らせている。



本人は、自覚していないが。



(人間というのは本当に、愚かで、愛らしい・・・。)



ふふ、と笑みが漏れる。
「貴方を好きに出来るというのは大変魅力的な提案ですが・・・あの方とのお約束を違えることは出来ないのですよ、残念ながら。」
踵を返す男に、御堂は縋らんばかりの声を出した。
「待て!待ってくれッ!頼むから、彼を自由にしてくれ・・・!私をどうしてもいい、命をくれてやってもいい、だからッ!」
必死で言い募る御堂にRは振り返る。
一抹の希望にしがみ付く御堂の瞳は、愛しい者を守ろうとする愚かな自己犠牲の衝動に駆られている。

(さて、あの方はこれをみたら喜ぶでしょうか・・・それとも、よくも分からぬままに怒り狂うでしょうか・・・)

Rはニコリと笑うと御堂に近づいた。
己の願いを聞き届けてくれるのかと御堂の空気が僅かに緩む。
華奢な顎を掬い上げるように持ち上げた。

「私は何もできませんが、彼を救う方法が一つありますよ?」

御堂がごくりと唾を飲む。
「それ、は・・・?」
今彼の心は偽りの光を見ていることだろう。
Rは極上の笑みを返した。


「貴方が佐伯克哉さんに、堕ちることです。」


「・・・!」



「あの方の与える快楽に身も心も委ねて、あの方に屈服すればいい。貴方が全てを放り出してあの方の奴隷になったとき、彼は解放されるでしょう。
 用済み、ですからね。簡単なことでしょう?・・・それとも、天秤に彼と己の矜持を並べて、それを測りますか?」



御堂の瞳が、自分とは反対側の壁際に拘束された本多に移る。
Rがそっとその場を外しても彼は気付かなかった。



(私が、屈服すれば・・・本多は、助かる・・・?)



確かにそうかもしれない。

佐伯が彼をここに連れて来させた理由は、御堂が佐伯に堕ちないからだ。



だが、本当に?




本当に、天秤の片側にかかるのは、己の矜持だけだろうか?



自分が佐伯に屈したときに失うのは、それだけではないはずだ。

佐伯に屈服して、自我も誇りも投げ出して奴隷になる。


それはつまり、御堂孝典であることを、辞める事。




本多が愛した人間でも、本多を愛する人間でも、無くなること。




(嫌だ・・・)




屈託の無い笑顔


暖かな腕


優しい気持ち




手放したくない。





だがそれでは、本多がこのまま、あの男に何をされるか分からない。







(どうすればいい・・ッ、どうすれば・・・・・!)











ガチャリ
玄関の開く音が響いた。




















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お待たせいたしました、続編開始でございます。
予想外にRのターンでしたが(笑)
でももう彼は出ません。だって書きにく(ry
これもまた前作と同じような長期連載になりそうですが、そして前作以上の鬱小説になりますが、少しでも楽しんでいただけたらと思います。