そのままどの位抱きしめていただろうか。

嗚咽が啜り泣きになり、それも聞こえなくなって少ししてから、御堂がポツリと言葉を発した。



「・・・スーツ」



「へ・・・?」
大きく予想外だった単語に思わず間抜けな声が返る。
肩口に顔を押し付けていた顔を上げて、それでも視線は合わせずに御堂が繰り返した。
「スーツ、汚してしまった・・・」
視線をそちらにやれば確かに、御堂の涙で濡れた部分が暗く色を落としている。

だがそれよりも、本多の目を引いたのは御堂の表情だった。


泣きはらした目元は真っ赤で、冷たい風に晒された涙の痕が痛々しい。

まだ完全には落ち着いていないのだろう。
時折形の良い眉が寄せられて、何かを耐えるような表情になる。




今までこんな表情、晒せる相手はいたのだろうか。

涙を見せられる相手なんて持たないからこそ、この人はこんなに苦しんでいるのじゃないだろうか。




そう思いながら見つめる本多の視線の先で、御堂は居心地悪げに身じろぎした。
考え事に気を取られていたせいで、離せ、と訴えているその動きに応じるように手の力を緩めてしまう。
「クリーニング代、今度言え・・・払うから・・。」
多分言葉を紡ぐのはそれだけで精一杯だったのだろう。
御堂は後は何も言えず無言で踵を返す。

その背中を後ろから抱きしめた。

「っ・・・」

ビクッと身体が強張るが、構わず抱きしめる。
腕ごと抱きすくめられて御堂は身を捩ることしかできない。
本気で暴れられないのは大泣きした直後だからか、それとも、相手がこの男だからか。

「本当に、すみませんでした・・・無神経なことして・・・。
 でも、御堂さんを支えたいっていう気持ちに嘘はありません。力になりたいって、本当に思ってるんです。」

自分の知る本多と言う男と同一人物とは思えないほど、静かな誠意に満ちた声だった。
必要ないと繰り返すはずだったのに、御堂の口から零れたのは苦笑交じりの、全く別の言葉で。

「君も大概、しつこいな・・・」

本多から抗議や反論は返ってこない。
ただ、抱きしめる腕に力が入っただけだった。
御堂は身を捩るのをやめ、腕の中でじっと言葉を待つ。


人間の体温というのはこんなに温かかっただろうか。


「訴えようなんて言わないし、御堂さんが決めるまでは余計な行動もとりませんから。」
御堂から笑うような息が漏れた。
「じゃあ・・なにをしようっていうんだ一体・・・」
問いに返されたのは別の問い。


「御堂さん、さっきみたいに泣いたことありますか?」


「・・・っ」

静かなそれに御堂は小さく目を瞠った。



「さっきみたいに、思ってたこと吐き出したことも、ないんじゃないですか?俺、そういうのを受け止めたいんです。
 それ位だったら余計なことして御堂さんに迷惑かけることもないし、一人で溜め込んで潰れちまうより全然いいでしょ?」



「本、多・・・」

告げられる言葉も、抱きしめてくる腕も、温かすぎて。
1人で凍えて蹲っていた御堂にとってそれは、余りにも、優しかった。

「どんなに辛いことか俺には想像しかできないし、多分慰めようとしても安っぽい言葉しか言えないだろうから、黙ってますから。
 だから、俺の前では思いっきり泣いて、思いっきり弱音とか吐き出しちゃって下さい。そうすれば、少しは楽になると思うんです。」


じんわりと、指先から、身体の奥から、心地よい柔らかな暖かさに包まれていく気がした。


それを拒絶する術を御堂は持っていなかった。



極寒の暗闇の中、不意に与えられた春の太陽のような温度。

光源を辿った先にあるのが同情とか哀れみだったとしても、冷え切った身体にその光が何よりも心地よいのは変わらない。



御堂から小さな笑い声が僅かに零れた。

「御堂さん・・・?」


「馬鹿だな、君は・・・」



御堂を陵辱している男のことを思えば本多を巻き込むべきではないとわかっているのに。

なのに。



「馬鹿でもいいっすよ。俺が馬鹿なせいで御堂さんがちょっとでも苦しまずに済むなら、それで。」





この男がこんなに暖かいから。


拒めないじゃ、ないか。





抱きしめてくる身体に御堂は身を委ねた。



伝わる体温が暖かくて気持ちいい。

おかしなものだ。


毎日のように身体をつなげさせられているのに、体温を感じたのが凄く久しぶりな気がするとは。



まったく・・・この男は。



「馬鹿な上に、お人よしが過ぎる」
本多は小さく溜息をついた。
「こういうときは一言、ありがとうって言えばいいんだよ・・・」
アンタそういうとこホント可愛くねぇ、とぼやく本多を尻目に御堂が歩き出す。

その背中はいつもの様に凛と伸びていたけれどどこか雰囲気が柔らかくて。


素直じゃねぇんだから、と口の中だけで笑って追いかけた。


横に並ぶ本多に御堂が眉を顰める。
「なぜ君までこっちにくるんだ。駅は向こうだぞ。」
「お宅までお送りします」
「必要ない」
「だから、俺に意地張るのは無しっすよ御堂さん」
「人の世話を焼きたがるのは勝手だが、必要ないと言っている相手に食い下がると嫌われるぞ。」
「御堂さんこそ、ちょっとは素直にならないと嫌われますよ」
「余計なお世話だ」
顔を覗きこんでくる本多に対して御堂はずっと前を向いたまま早足で歩く。

そんな、他愛の無いやり取りをしているうちに御堂の住むマンションが見えてきた。


ビルを見上げた御堂の瞳には怯えるような色があった。


高層マンションを外から見ても、自分の部屋など大体しか分からない。




だがもし自分の部屋が、電気の消えた場所ではなく電気のついている場所だったら。







・・・・佐伯が、待っていたら・・・。







本多は御堂の異変に気付いて眉を寄せた。

「御堂さん?」

気遣うようなその声にハッと御堂が我にかえる。
「今日はいろいろ・・・世話になったな。明日は休みだろうから、ゆっくり休むといい。じゃあ」
視線を合わせず一息に言い、御堂はエントランスに向かって踵を返す。

本多は咄嗟にそのあとを追いかけた。


閉まりかけた最初の自動ドアを強引にすり抜けて、認証パネルにカードを翳そうとしていた御堂の手を捕まえた。


「っ、」



掴んだ手首。
白い指に支えられたカードキーは、小刻みに震えていた。



「そいつ、いつも御堂さんの家にくるんですね?」

まるで自分が苦しんでいるような本多の顔。
一瞬、御堂は言葉につまった。
本多を見上げた藤色の瞳は微かに揺れている。

御堂の手首を掴む手に力を込め、本多は有無を言わさず歩き出した。


エントランスから外へ出て、マンションとは反対側へ。


「なっ、本多!離せ!!なにをす・・っ、どこへ行く気だ!」




「御堂さんが眠れるところです」




本多は低い声で、振り返りもせずに言った。
御堂の瞳が見開かれる。

「な・・・っ」

呆気に取られる御堂をそのままひっぱるようにして進んでいく。
辿り着いたのは、ビジネス街にある、それなりに名の通ったホテルで。
手を離せといったのは別に抵抗するためではなくて人の目が気になるからだったのに、本多はそう想わなかったのだろう。
手を引かれたまま落ち着いた雰囲気のロビーを横切らねばならず、ちらほらといる他の客の視線から逃れるために御堂は必死で俯いた。
フロントに辿り着いた所で漸く手を離される。
ほっとした御堂だが、本多が発した一言にまた目を剥く嵌めになる。

部屋のタイプを聞かれ「ツインで」と答えたのだ。

「ちょ、ちょっと待て、君も泊まるのか?」
人の目を憚って声を潜めながら言う御堂に本多はわざとらしく驚いたような顔をしてみせた。


「え、部長、まさか俺は別の所に泊まれっていうんですか?」
「は?」


「いくら俺がヒラだからってそれは酷すぎますよ・・・それに明日朝一でMGNさんと会議なんですから打ち合わせするためにも同じ部屋の方がいいでしょう?」
「な・・、」
「ツインでお願いします」
御堂に口を挟む隙を与えず一気に言い切り、フロント係にそう伝える。

御堂とて呆気に取られたままではなかったが、ここで事を荒げても奇妙に思われるだけなのは確かだ。


あまりの勝手さに半ば憤りながら後は本多の好きにさせた。







「一体どういうつもりだ!いきなりこんなところへ連れてきたかと思えば、泊まる必要も無い君まで泊まるとは!」

フロントから離れ、人気の無いエレベーターホールまで来たところで御堂は一気にまくし立てた。


「“泊まる必要も無い君まで”ってことは、少なくとも俺が御堂さんをここまで連れてきた理由は納得してくれてるんすね。」


振り返った本多の顔は真剣で、声は低かった。
御堂は言葉に詰まった。

自宅がどれ程の精神的負担を齎す空間なのか、誰よりも知っているのは当然ながら彼自身なのだから。

沈黙した御堂に本多が語調を荒げる。




「辛いなら辛いって言えばいいいじゃないすか!あんな顔して大丈夫なんて言って・・・・アンタからみたら俺なんか全然頼りにならねぇだろうけど、
 必要ないって言われるってわかってても、あんな顔されたら放っておけるわけないじゃないすか!」




決して周囲には響き渡らないよう声を抑えたその声に苦痛が混ざっているのに気付き、御堂は俯かせていた視線を上げた。



憤っていて、でも辛そうなその顔。

そんな顔をさせてしまったのは、自分だ。




「・・・・すまない・・・・・・ありがとう」

ぽつりと付け加えられた感謝の言葉に本多の瞳が少し緩む。
そして口許に笑みを戻すと、ポン、と軽く御堂の肩を叩いた。

「少しずつで、いいっすから。」


頼りたいときに頼ってください。



そう言って歩き出そうとする。
泊まるんじゃないのか、と御堂は驚いて呼び止めた。

「本多?」

呼ばれた意味が分かっていたのだろう、本多は苦笑気味な顔で振り返る。
「幾らなんでも、やっぱ俺がいるのは居心地悪いでしょ。帰りますよ。」
じゃあ、と再び向けられた背中へ、咄嗟に声を上げた。


「待てっ」


本多が怪訝そうな顔で振り向く。
呼び止めたものの、御堂は考えた上ではない自分の行動に次が続かない。


途方にくれたような御堂の顔を見た本多は、まったく、と柔らかに笑った。





この人は。


本当に。



愛しいくらい、誇り高くて。




笑ってしまうくらい、不器用で。





こんな御堂だから多分、煩がられてもいいから力になりたいと思ったんだ。


そんな御堂が好きだから、多分。






慈しみと言っていい表情を混ぜた笑みを零してから、大股で御堂との距離を詰める。
「その・・・あまり1人で居たくないから、君さえよければ、泊まっていって欲しい。」
僅かに目を逸らしながら言う御堂に、本多はニッと笑って見せた。

「もちろん、構わないっすよ。」

その後部屋へついてからシャワーを浴びて、2人は早々にそれぞれのベッドへ横になった。
今日は金曜で明日は休みだから時間が無かったわけではない。

だが本多は早く御堂を休ませたかった。


マンションに入ろうとする時の御堂の表情を見れば、自分の部屋でさえ安らげない日々が続いているのは明らかだったから。


御堂は佐伯が来る可能性が無いという安心感から今日までの疲労が急に自覚されて、ベッドに入ると直ぐに眠りに落ちてしまった。
本多もまた一週間の仕事の疲れもあり、その後すぐ目を閉じた。




何かを感じて目を開けたのは、それから何時間か過ぎた後だ。




数秒目を瞬かせた後、枕元に置いた腕時計を見る。
二時半過ぎ。

まだ夜じゃないかと寝ようとして、再び身を横たえようとする途中映った隣の様子に本多は動きを止めた。


咄嗟に半身を起こす。




御堂が小さく呻きながら、ベッドの中で何かから逃げようとするように藻掻いていた。



「っ、おい・・」

額には薄っすら汗が浮かび、眉はきつく寄せられている。
噛み締められた唇が緩むたびに出る声は明らかに苦痛を訴えるもので。
「御堂・・・っ」
只事ではない様子に慌てて起き上がる。

とにかく起こそうと肩に手を伸ばした時、御堂が言葉を発した。


「や・・めろ・っ、はなせ・・・っっ」


本多は一瞬手を引いたが、まだ彼の手は御堂に触れていなかったのだから、彼に向けて言った言葉ではない。



ならば・・・。

御堂が夢で魘される相手といったら、1人だけだろう。



彼を陵辱している男だ。



本多はギリ…と奥歯を噛んだ。
御堂をここまで追い詰めている男に憎悪を覚えたのだ。


「ぃ、や・・・嫌、だ・・っ」
「・・・っ」


御堂が再び発した声で我に返る。

顔も知らない男に届かぬ憎悪など抱いている場合ではなかった。


御堂を早く悪夢から解放してやらねば。


両肩を掴んでやや乱暴に揺さぶる。
「御堂さん、起きてください・・、御堂さん!」
「!!!」
ガクッと首が仰け反った瞬間、御堂の瞳がカッと開かれた。
瞬時に彼の腕が本多めがけて伸びて、しかし、押しのけようとする寸前で彼は相手を正しく認識した。

「っ、・・・・ほ、ん・・だ・・・?」

本多の胸倉を掴んだまま、御堂が呆然と名を呼ぶ。

恐らくそれで本人も整理が付いたのだろう。
暫くすると強張った指を解いて本多から手を離した。


一度目を閉じて、目元を覆うように腕を渡すとニ三度深く呼吸をする。


「大丈夫ですか・・・?」
落ち着いたのを見計らって本多が声を掛けると御堂が目元から腕を外して彼を見上げた。
「私は・・・魘されていたのか」
聞くというより確認するような言い方だった。
本多が頷く。

暫くそのまま黙っていた御堂だが、恐ろしい可能性に行き当たって心臓を跳ねさせた。



夢の中で彼を嬲っていたのは佐伯だ。

私は夢の中であの男の名を呼んだだろうか?


呼んだかもしれない。



口に・・・出してしまっていたら・・・・・本多に、名を聞かれていたら・・・・。



血の気が引く。

震えそうになる声を叱咤して努めて普通な風に御堂は言葉を紡いだ。
「私は・・・・・なにか、言っていたか・・・?」
本多は頷いた。
「嫌だ、とか、離せ、とか」
「・・・それ、だけか?」
「ええ」

目に見えて御堂の身体から力が抜ける。



良かった。



知られてはいなかった。

この男を、決定的に巻き込んでしまう一つの名前を零さずに済んだ。



良かった・・・。




私は彼を苦しめたくはない・・・笑っていてほしいんだ、この、馬鹿みたいに真っ直ぐで、呆れるほど快活な男には。




「そうか・・・起こして悪かったな・・」

言ってから喉の渇きに気付く。
どれだけ魘されていたのだろうかと思い、隣のベッドで寝ている人間を起こすくらいなのだと思い当たって申し訳なくなる。

何か飲んで潤そうと立ち上がって、足をシーツに引っ掛けた。


「危ないっ!」


瞬時に反応した本多が御堂を後ろから抱きとめる。





反射的に、それを振り払っていた。





「っ、ぅ・・・」

突き飛ばす腕の動きを予測していなかった本多が尻餅をつく。



「あ・・・」



御堂は予期せぬ自分の反応に呆然と彼を見ることしか出来なかった。
それから、彼を突き飛ばした自分の腕を。

微かに震えるそれを。


本多もその腕を見つめ、そして御堂よりも早く今の出来事の理由に思い当たる。




レストランから追いかけて御堂の手首を掴んだとき。

背を向けた彼を背後から抱きしめたとき。


そして今。


彼が示した反応はどれも同じ種類のもの。




多分意図したものではなく、身体が勝手に示したのだろう。

陵辱される日々で他人の存在に酷く怯えるようになってしまった、彼の身体が。




「御堂さん」

そっと手を伸ばして、震える腕に触れた。


御堂の身体がビクッと揺れる。



目の前にいるのが本多だと分かっていても、傷つける意思など無いと分かっていても、怖いのだ、他人に触れられるのが。



本多はゆっくりと御堂を抱きしめた。
強張る身体を包み込んで、あやすように背中をさする。


それでも解けない緊張が痛々しくて堪らなかった。





抱きしめられて安堵する。

体温にホッとする。


そんな、人間の当然の反応さえ奪われてしまったのだ、彼は。






「すまない・・・」

御堂が小さな声で言った。
突き飛ばしたことへだろうか、それとも、強張りを解くことが出来ないことへだろうか。


「御堂さん、自分以外の人、怖いですか・・・?」


肩口へ埋められた御堂の頭が小さく横へ振られる。


「ちがう・・・身体が、勝手に・・なってしまうんだ・・・」


そういう御堂からはやはり緊張が抜けない。
本多は決して力をこめすぎないよう、優しく抱きしめ続ける。


じんわりと伝わる体温は暖かいはずなのに。

自分以外の人間が触れていることに、身体は無意識に緊張してしまう。



「身体が勝手にそうなるの、嫌ですか」


御堂は頷いた。



本多を拒絶したいわけじゃないのに。

むしろ感謝したいくらいなのに。


この暖かさを心地よく思っているはずなのに、思う通りにならない身体が恨めしい。




なら、と本多が静かに続けた。





「俺が、貴方の身体に教えます・・・人と交わることの、優しい部分を」







数秒の沈黙の後、言葉の意味を理解した御堂の目が大きく瞠られた。














NEXT>>>



今回は前回より乙女度も糖度も上がりました・・・上がりすぎて別人になってないといいんですが・・・・(汗)
予定では三話で完結だったんですが、ここまで持ってくのに予想外にページを取ってしまって、四話になりました。次で終わりです。
眼鏡を出す案もありましたが長くなる上に御堂さんが余りに可哀想に思えたので、今回は眼鏡自重ということで出番なし。
まぁ、活躍の場は沢山あるから我慢してくれ、眼鏡。