スーツのままでいいと御堂には言われたものの、指定されたレストランはカジュアルな内装でありながら中々に高級そうだった。
扉の中で待っていたウェイターに御堂の名を告げて案内された先、窓辺の席に御堂がいた。
歩み寄る本多に気付いた様子も無くぼんやりとガラス越しに夜の町並みを眺める御堂の横顔が、
テーブルの上のキャンドルの揺れる灯りにどこか憂いを含んで映えている。

オレンジ色を帯びた仄明るい店内の照明ではわかりにくかったが、やはりその顔には疲れが濃い。
昨日の今日なのだから、当たり前だ。

「御堂部長、すみませんお待たせして」
店内にゆったりと流れるクラシックを遮らない程度に抑えた声をかけると、漸く御堂は歩み寄ってくる本多のほうへ視線を向けた。
慌てた様子も見せずゆっくり立ち上がり、向かいの椅子を勧める。
「いや、私のほうこそ急な呼び出しをしてすまなかった。」
傍に控えていたウェイターに御堂が小さく目配せする。
恐らくは、本多が来るまで待たせておいたコース料理の配膳を頼んだのだろう。
いま約束の時間ぴったりだったが、御堂はいつからここに居たのだろうか。
白ワインが注がれオードブルが出される。
「昨日は偶々通りかかっただけだったんだろう?勤務時間中だというのに迷惑をかけたな」
ウェイターが下がるのを待って御堂が言った。

口許に浮かんでいるのは苦笑のようだ。
多分、御堂自身に向けたものだろう。

自信たっぷりな何時もの笑い方の方が、少々鼻についても彼に似合っていると本多は思う。

自嘲的な彼を見ていたくなくて、本多は努めて明るい声を出した。

「ホント、いきなり倒れたんでびっくりしましたよ。藤田も言ってましたが、働きすぎなんじゃないすか?
 もうちょっと俺たちを頼ってくださいよ、ビジネス・パートナーなんすから。」
軽い調子で言った本多に御堂が片眉をひょいと上げる。
「ビジネス・パートナーなどという言葉は、もう少しマシな働きをしてから言うことだ。
 この間も取引先からの電話を取り違えたと聞いた。それに・・・・・何を笑っている」

能天気な本多の空気につられてか、いつものような応酬を始めそうになって、正面の男の笑顔に御堂は眉を顰めた。
不機嫌な顔になった彼に本多は屈託ない笑顔を見せた。

「いや、やっぱ御堂部長はそういう調子の方が似合いますよ。辛気臭い声と顔より、腹立つくらい偉そうな態度の方が安心します。」

ニカッと笑う本多の顔が一瞬、御堂の表情から毒気を抜いた。
意表をつく答えと無邪気な笑顔に呆気に取られたのだろう。
もちろん自分の表情に気付くと御堂は直ぐにもとの顰め面を作り直した。

「・・・・元気付けたいのか怒らせたいのか、どっちだ、本多」

ワイングラスを持って視線をそちらに逸らす御堂はどこか拗ねているようにもみえる。


照れくさかったのだ。

久々に感じた、人間的な優しさだったから。


そんな御堂に本多がまた、邪気のない笑みを向ける。
「どっちもっすよ」
御堂の前でこんなにも素直な笑顔を見せる人間など最近は全くいない。

肩書きであったり自分で作った防御ラインだったり、そんなものを挟んで接するのが常だったから。


そんな城壁を平気な顔でぶち壊して入ってくる人間は彼で二人目だったが、もう1人とは違い、不快感は全く感じなかった。


「大きく括れば元気付けたいに入るのかも知れないっすけど、とにかくいつもの御堂部長を見たいだけです。
 妙に自虐的なのより、怒ってるほうが御堂さんっぽいですから」
飾りも裏もない言葉に、自然と口許が緩む。
この男の真っ直ぐな態度は心の緊張も溶かしてしまうようだ。

人間の尊厳すら踏みにじられる生活に押しつぶされそうになっていた御堂の心が、ふわりと温かい体温を感じさせる本多の空気に癒される。

その感触がなんだかくすぐったい。


それに本多に安心しているというのが何だか面白くなくて、
御堂は運ばれてきたパイ包みのスープが発する柔らかく香ばしい香りに、自分の心を解きほぐした手柄を無理矢理押し付けた。




その後食事は穏やかに進んだ。

御堂の気に入っているシェフの料理は流石なもので、御堂がチョイスしたらしいワインも料理に良く合っていた。
ワインを飲みつけていないだろう本多の為に、赤は極力軽めなものを選んだ御堂である。
やや重口を好む御堂には少し物足りなくもあったが、本多の口にあったようなので良しとした。
本多の感想はどれもこれも率直で、飾り気も凝った言い回しも皆無だが、それだけに素朴な言葉が素直に味を褒めるので御堂も嬉しく思った。

その本多の纏う空気が少し重くなったのはメインが下がり、コーヒーと口直し程度のデザートが出た頃だった。


本多はいつ切り出そうか迷っていた。
できれば御堂の柔らかな表情や雰囲気を壊したくなくて、いままで黙っていたのだ。

本音を言えば、あんな傷のことなど持ち出さずに、このまま柔らかな空気を2人で味わっていたい。


でも。


ここで何も言わずに逃げたら、いまは兎も角、御堂はまた直ぐに辛い現実へと帰らなければならないのだ。



本多が口を出せば、そこから自由になれるかもしれない。




思い切って、口を開いた。




「御堂さん・・・」
出た声は御堂の顔から穏やかさを消すには十分すぎるほど硬く重かった。
今日ばかりでなく、いままで一度も聞いた事のない声の調子に不安を感じる。

良いことでないのは呼びかけだけで明らかだった。

「なんだ、急に深刻な顔をして」

それでもこの雰囲気を壊したくなくて、御堂は賢明に明るい声をだした。
だが声も笑みも引き攣って、成功したとは言いがたい。

昨日、本多が自分の世話をしたのだと藤田から聞いた時に浮かんだ危惧が再び湧き上がる。


右手が無意識に、左手首を覆った。


テーブルの影での動きで手首は見えないが、腕の動きから本多にも御堂の行動と思考が分かった。
彼も気づいているのだと思うと益々気が重くなる。
だがもう今更空気は戻らないし、いずれは言う事なのだからと自分を叱咤した。

「昨日、御堂さんのスーツを脱がせたときに見たんです・・・手首の、傷。」

手の動きを見られたと知って御堂が取り繕うようにコーヒーカップに掛けていた手が大きく揺れた。

カチャン、と鋭い音がして、白い磁器の縁からコーヒーが波打ってソーサーへ零れる。
小さい音だったが、聞きつけたウェイターがそっとそれを下げ、新しいものと取り替えた。

その間、口を閉じたままの本多に御堂が向けていたのは懇願とも取れる視線。



言わないでくれ、触れないでくれ、頼むから。

そう訴える藤色の瞳に胸がズキズキと痛んだ。



でもその瞳の奥に、確かに助けを求める色がうかがえるからこそ、ここで退くことはできなかった。



「唯の、怪我じゃないですよね・・・」

遠慮がちなそれは、決して御堂を貶めようとしているのではないと分かる。


だが本多は知らないのだ。

この傷をつけたのが、彼が大切に思う親友なのだということを。


知らないから、いえるのだ。



知るべきでも、なかった。



ここ数時間のこととはいえ、御堂は本多に対して抱く感情をがらりと変えていた。
この真っ直ぐな心根を持った男に要らぬ葛藤など与えたくない。

だから、知られてはいけないのだ。



「・・・ただの、怪我だ。」
それでも言い訳など出来ない傷痕のせいで御堂に勝機などないに等しい。
だがせめてこれを付けたのが誰かという事だけでも隠さなければ。
硬い御堂の声に、強張ったのは本多の表情だった。
唯の怪我などといういいわけが通るはずがないのに、それでもそう言い張る。

つまり絶対に教えるつもりは無いという意思表示。

締め出されたことが、本多は哀しかった。


「縄と、手錠でできた唯の怪我、ですか・・・?」
「・・・っ」


テーブル上の御堂の手がギュ、と握り締められる。
唇を噛み締めて、彼は震えそうになる身体を辛うじて抑えていた。
「御堂さん・・・俺には、貴方が倒れた原因もその傷に関係ある気がしてならないんです。」
御堂の目がキッと本多を見た。
涙の膜が薄っすらとあるそれに本多は息を呑む。

「君に関係あることじゃない」

御堂は助けを求める心を押し殺して無表情の仮面を被る。


その先は君が覗くべき所じゃない。
下がれ、と伝えるために。


「私のプライベートに口を出す権利など君には無いだろう。・・・君のせいで気分が悪くなった。」
不快気に言い、御堂は革製の伝票ホルダーにカードを挟んでウェイターを呼んだ。
レジのほうへ行くウェイターを待つ間、御堂は本多のいる方向にすら視線を寄越そうとしない。


まっすぐなあの視線に掴まったら、何もかも話して助けを求めてしまいそうで。

突き放したことを後悔しそうで。


だが本多はまだ諦めてなどいなかった。
「権利とか、そういう問題すか?知り合いが苦しんでるのを心配して力になろうとするのに権利書なんていらないでしょう?
 それともどっかで書類を作ってもらって判子を貰ってくれば御堂さんは話してくれるっていうんですか」
食い下がる本多に、今度は本心から御堂の眉間へ皺が寄る。
本多もそれに気付いたが、それでも構わなかった。
今は退いてはいけない時だと本多は信じていた。
「私はそんなことを言ってるんじゃない。君に干渉される謂れなど無いと言ってるんだ。」
再びホルダーを持ってきたウェイターからペンを受け取ってサインを書きながら、刺々しさを隠そうともせず御堂が返す。
もう一度席を離れるウェイターに「早く頼む」と言付ける彼は本多のしつこさに本気で辟易しているようだ。

だとしてもやはり引き下がるわけには行かない。

「なら、俺が御堂さんの知り合いで、あれが原因で倒れた貴方を介抱して、あの傷を見た人間だってだけで充分じゃないすか。」

「いい加減にしないかっ」

声を抑えつつも御堂が語調を荒げた。
険悪な雰囲気に戸惑いを隠せない店員から明細とカードを受け取り、御堂は苛立たしげに立ち上がる。


「昨日のことは感謝しているが、今の君の態度は正直迷惑だ。」


低く言い捨てて御堂はコートを羽織ると店から出ていく。
本多は一つ溜息をついて彼を追いかけた。
「御堂さん!」
歩き去ろうとする背中に声を掛ける。
大股で進む彼の速度が若干早くなったが、駆け出した本多は直ぐに追いついた。

足を止めさせようと手首を掴む。
思い切り振り払われたが離さなかった。


「離せっ、しつこいぞ!」


「離してほしいなら、一人で意地張ってないで俺を頼ってください」
「必要ないと言っている!君など頼らずとも私だけで対処できる!」


本多は手を離させようとする御堂の手首をもう一方の手でも掴み、ワイシャツとジャケットの袖を引き下げた。


明るい街灯の光に、痛々しい痕が露わになる。
「っ・・・」
赤黒く沈みつつあるその傷を見た御堂の表情が苦しげに歪む。
付けられたときを思い出したからか。

「こんな痕付けて、心まで痛めて・・・それにこれだけじゃない、胸に鞭の痕まであるじゃないですか!」

御堂の顔色が一瞬にして蒼褪めた。
「な・・・っ」
本多を振り払おうとしていた手の動きも何もかも止まる。
唇だけが意味も無く戦慄くように震えた。


「手錠に鞭なんて、合意が無いなら立派な犯罪だし、合意があったとしても恋人同士の趣向といって許されるものとそうでないものがあるだろ。
 あんたはそれ位の判断、ちゃんとできるだろうし、合意でやってるとは思えない。
 たとえ相手が恋人だったとしても自分を犠牲にしてまで許す人じゃないだろあんたは!」


「恋人同士などであるものか!」



「なら尚更だ!これは列記とした傷害行為じゃないか!なんで警察にも行かずに泣き寝入りなんか」





「分かったような口を利くな!!!!」






怒号が、語気を強めていた本多を遮った。


見れば御堂は瞳の端に涙さえ溜めている。
御堂にもそれは分かっていたが、もう、剥がれ落ちた仮面を拾う余裕などなかった。



1人で抱え込んでいた感情が、目の前の男に向けて勢いよくあふれ出す。

彼には関係ない、彼を巻き込んではいけないと叫ぶ理性の声も、もう何の意味も持たない。




「君に何が分かる!!男に強姦されて、陵辱され続けて、誇りも自我も何もかも滅茶苦茶にぶち壊されて・・っ、
 身体さえっ、自分の身体さえ思い通りにならなくて・・・、毎日毎日、屈辱だけ刻み付けられて・・・!!
 君は男に強姦されたなんて世間に言えるか!?確かにアイツのやってることは犯罪だ!!私はアイツを法廷に引きずり出すことができる!
 だが、法廷で、私はあの男に何をされたのか克明に明かされるんだっ一度目は何をされた、二度目は何をされた、
 そんなことが世間にバラされるなんて耐えられるはずがないだろう!!!耐えられるというなら、お前が強姦されたときに勝手に訴えればいい!!

 何も、何も知らないくせに無責任なことを言うな!!!!」




若紫の瞳からボロボロと涙が零れ落ちる。

何ヶ月も耐え続けた涙と、苦痛。



堰を切って溢れ出したそれを止めることもせずにいる彼の手を咄嗟に引き寄せて本多は抱きしめた。



「っ、離せ・・!!」

胸を押し返して離れようと暴れる身体を強く強く抱きすくめる。


「御堂っ、悪かった・・・っ、そこまで深刻だと思わなかったんだ・・・いや、あんたの言うとおり、
 何にも知らないくせにデカい顔してただけだった・・・でもあんたを助けたいと思ったのは、力になりたいと思ったのは本当だ・・・」


抗う御堂を抱く腕に力をこめる。


まさか男に強姦され続けていたなんて。
そんな、自我をも潰されそうな事態を一人で耐えていたなんて。

この、誇り高い人にとってそれは・・・どれほど・・・辛く苦しいことだったのか。



俺は、最低だ。



助けたいという気持ちが本当でも、御堂の一番触れられたくない所に土足で踏み込んで。


良く知りもせずに引っ掻き回して。




「さぃ、ていだっ、きみは・・・っ」




震える声で御堂が罵った。


本多は謝るに相応しい言葉を、もう持っていなかった。







言葉に出したことで蘇ってしまったのだろう記憶に涙を流し続ける御堂の小刻みに震える身体をただただ、抱きしめた。








そんなことしか、出来なかった。










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あ、あれぇ・・・???もっとこう、もう少し甘い話になるはずなのになんでこんなに殺伐としてるんだろうこの2人・・・(汗)
昨日の夜の時点ではレストランで御堂さんが泣きそうになってたり、路上で本多が追いつくまでぐるぐる悩んだりしてもう少し可愛げがあったんですが
余りにも御堂さんが乙女過ぎる!!!と自分に渇を入れて全部消して書き直したら・・・まさかのブラック無糖。
つ、つぎは、次はもう少し甘くなりますから!もう喧嘩とかしませんから許してくださいorz