「お、ラッキー」
進行方向に目的の背中を見つけて、本多は思わず独り言ちた。
所用を終えてMGNを出て暫くしてから、捺印を頼まれていた書類があったことに気付いて慌てて戻ってきたのだ。
欲しいのは御堂の部長印。
少し離れた所でタクシーから降りている御堂に駆け寄る。
印鑑をいま持っているとは限らないが、たかが捺印ひとつの為に待たされるよりは捕まえて同行したほうがいいだろう。

「御堂、部長・・・?」


大きく声を張り上げて呼び止めようとしたのに、無意識にそれが弱まった。
ビルへ向けて歩き出した御堂の様子が遠目に見ても明らかにおかしかったからだ。

いつもの感じじゃない・・・それに、足元が覚束ない。


まるで今にも・・・



(倒れそう・・・!?)



咄嗟に、駆け出した。



走り出した本多の視界の先でグラリと御堂の身体が傾く。

「御堂部長!!!」


黒髪が大きく揺れ上体が傾いた直後に膝が折れて・・・

身体を支えようと動くはずの手はふわりと浮かぶだけで


倒れる・・!!



「御堂ッッ!!!」



本多は必死で腕を伸ばした。
掴んだジャケットを力任せに引っ張って強引に腕の中に身体を引き寄せる。
無理な動作で本多の体勢も崩れる。
2人で倒れるよりは、と腰を落とした。
受け止めた瞬間、膝をアスファルトに強打する。
「・・・っ」
身を痛みが貫いたが、いまはそれより御堂だった。

眉間に力を入れ、目を閉じたままグッタリと本多に身体を預けてくる御堂は完全に気を失っているらしい。

「おい、しっかりしろ!」
軽く揺すってみるが、起きる気配もない。
その時別の声が降ってきた。

「なにかありまし・・・御堂部長!?」

慌てて駆け寄ってきた男に本多は見覚えがあった。
彼のほうも、振り返った本多をみて目を丸くする。
「あ、本多さん!御堂部長、どうしたんですか!?」
「えーっと、藤田、だったよな・・・いま倒れたんだ、目の前で。」
確か今年入社したばかりの新人の部下だと御堂に紹介された気がする。
人当たりのいい奴、という好印象は覚えている。
藤田は本多に会釈しながらしゃがんで御堂を覗き込んだ。
深刻な面持ちに焦りと心配を滲ませて額や首筋に手を当てる。
「熱があるわけじゃないですね・・・冷たいくらいだ・・顔色も悪いし・・・脈は普通かな・・・?」
「どうする?病院に運ぶか?救急車とか?」
他に人間はいないのかと辺りを見回すのだがタイミング悪く人影がない。
携帯を取り出そうとすると慌てて藤田が止めた。
「いや、救急車はまずいですよ!病気じゃなさそうですし、大事にして会社に知られると御堂部長も都合が悪くなってしまうし・・・」
本多は首をかしげた。

そんなもんか?
彼にしてみれば後の面倒ごとよりも今は病院に運んだほうがいい気がするが、出世組というのは色々と大変なのだろうか。

まぁ、確かに今すぐ病院に送り込んだほうがよさそうというほどの様子ではない。

「じゃあどこに運ぶんだ?会社に知られちゃまずいってことは会社の医務室も駄目だろ?」
その問いに藤田は少し考え込む。
「御堂部長の家しかなさそうですね・・・近いし、場所もわかりますから」
「ああ・・・」
ビジネス街に近い高層マンションだと言った同僚の佐伯の言葉が本多の脳裏に蘇る。
藤田は立ち上がって道路のほうへ駆け出す。
タクシーを呼び止めるのか。
一台の空車がウィンカーを出すのを見て本多は御堂を横抱きに抱き上げた。

「よ、っと」

自分より小柄とはいえ大の男だと気合を入れて抱き上げて・・・予想外の軽さに目を瞠る。


「軽っ・・?」


確かに御堂は本多よりも小柄といえるし背も低い。
それでも身長でいえば差は5cm位のものだ。

たったそれだけで、そこまで差がでるとは思えない。

それに、御堂は細身の部類には入っても決して痩せすぎなわけじゃない。

適度に筋肉も付いていることをうかがわせる出で立ちだったのに。


タクシーのほうへ歩きながら、腕の中の御堂の身体を確かめる。
(痩せた・・のか・・・・?)
そう思いながら御堂の顔を見て、今思ったばかりの表現を否定する。

痩せたというより、やつれたといった印象だ。

目の下には薄いとは言えない翳りがあるし、頬の辺りも、初対面のころより鋭くなった気がする。
タクシーに乗り込んで暫くしたころ、御堂の顔を覗きこんだ藤田も同じ感想を口にした。
「仕事、そんなにキツいのか?」
藤田が小首を傾げる。
「プロジェクトの大きさだけ見れば、今まで御堂部長が主導してきたものとそんなに変わらない筈ですよ。でも・・・」
「でも?」
何を思い出したのか藤田の表情が曇った。
言いにくいことのようで、聞き返した本多にもすぐには答えない。
「このごろ、部長、無理することが多くて・・・それに、疲れてるのかな・・最近、今までの御堂部長ならしなかったような
 小さいミスが多いんです・・・・同期や先輩たちも何か有ったのかって心配してるんですが・・・・」
独り言のように言う藤田は心から心配そうな顔で、目を閉じたままの御堂を見ている。
本多を初めとするキクチの面々には冷徹と言っていいほど厳しいが、ここまで慕われるという事は部下の面倒見はいいのだろうか。
御堂のことだから部下にも厳しいだろうが、その言葉は利潤に結びつく的確なもので何より有言実行で自らも仕事ができるからこそ信頼されているのだろう。

御堂を見つめる藤田の顔を見ながら本多は自らの考えを改めた。
今までは人を馬鹿にしたような思い切り見下した態度ばかり気に障って、とにかく気に入らないという印象ばかり強かったが。

確かに思い返してみれば、御堂が間違ったことを言った試しはない。

新たな印象でもって御堂の顔を見たとき、タクシーが止まった。
「先に降りてください、支払いますから」
「あ、そうだな」
一度車外に出てから御堂を慎重に外へ出し、抱き上げる。
驚く管理人に事情を説明してカードキー認証の自動ドアを開けてもらい、高層階にある御堂の部屋も開錠してもらった。
広いリビングとダイニングを通り抜けて、書斎の隣にある寝室に漸く辿り着く。
流石にその頃には腕も限界を訴えていたから、御堂をベッドに下ろした本多はそこで一息ついた。
「ふぅ・・・ここまでくれば一安心だな」

あとは自分がやるよりも、直属の部下である藤田がしたほうが色々と都合がいいだろう。
そう思って後を任せようとしたとき、藤田の携帯が鳴った。

「あ、すみません、ちょっと待っててください」

話し声で起こさないように藤田は寝室を出てリビングで電話を取る。


手持ち無沙汰で待っていた本多が見た藤田の顔はすまなそうなそれだった。
嫌な予感。


「・・・まさか、呼び出しか?」

否定してくれと思いながら発した本多の言葉に藤田が頷く。
「専務から・・・すぐ戻るようにと・・・」
盛大な溜息が漏れる。
専務から呼び出しとなれば断るわけには行かない。

「しょうがねぇな・・・ここは俺がなんとかすっから」

早く行け、とヒラヒラ手を振る。
藤田は謝りつつ礼をいい、お大事にしてくださいという御堂への伝言を預けて、どこかに電話をかけながら駆け出していった。

それを見送ってから、ぐったりとベッドに横たわったままの御堂へ向き直る。

「まずは・・・服だな」


一分の隙もない、と形容できそうな御堂のスーツ姿。
それは御堂孝典という人物の象徴とも言えそうな出で立ちでは有るが、さすがにこの体調でこれは苦しいだろう。


「失礼しますよ、御堂部長」
よ、とベッドに乗り上げて御堂の半身を抱き起こす。
相手に全く協力の意志がない状態で服を脱がすのはかなり苦労したが、何とかジャケットとベストを取り払った。
とりあえず皺にならないように、クローゼットへ掛けて。
ネクタイを外した所で改めて全身を見る。

やはり・・・最初に会ったころよりも線が細くなった気がする。
藤田の口ぶりでは仕事がキツすぎるということでもないようだし。

Yシャツのボタンを二つ外しながら眺めた端整な顔は、やはり疲れが濃く滲んでいる。

何かプライベートで大変なことでも有ったのだろうか?

そう思いながら視線を下ろした。



そして、視界に入ったものに、息を呑んだ。




「っ、な・・・」





ジャケットを脱がす時ずり上がってしまったのだろうシャツの袖口。

覗いた手首の白い肌に、赤黒い傷が生々しく刻まれていた。






「これ・・って・・・・」




ただの怪我などでは断じてない。
普通に怪我をして、手首を一周する擦過痕など出来るはずがない。

しかも、両手首になんて。




よく見れば傷は二種類だった。

何かが擦れたような太い擦過傷と、何かもっと硬くて細いものが食い込んで出来たような切り傷に近いような細く深い傷。


「縄と・・・金属、の・・輪・・・?」


自分の発した言葉と、傷が付いている場所から想像した光景を本多は慌てて頭の中から追い払った。


「まさか、馬鹿か俺は」
何を考えてるんだ、そんな筈があるか、と言い聞かせ、一旦手首から視線を外す。
それでも思い当たった二つのもの以外で手首にそんな傷をつけられるものなど思いつかない。

縄と、手錠。


本当にそうだとしたら?


御堂の個人的な性向かもしれない。
でも違ったら。


そして、御堂の憔悴振りとこの傷に関係があったら。


本多はシャツのボタンへ手を伸ばした。
ゆっくりとそれを外していく。
徐々に露わになる白く滑らかな肌。

それが目に映る全てであるようにと祈りながら左右に肌蹴させた。


「・・・・」


本多の祈りは裏切られた。



現れた御堂の肌には・・・・紅く痛々しい蚯蚓(みみず)腫れがくっきりと、何条も、浮き出ていた。



元の肌が整っているだけに余計に痛々しい印象を与える。
本多は眉間に深い皺を刻んだ。

例え、これが御堂も同意の上の行為だったとしても。


たとえ、相手の・・多分男だろう・・・が、御堂を愛していたとしても。



いや、愛しているなら愛しているからこそ、大切な存在であるはずの人を傷つける行為など理解できない。



そしてもしも同意の上の行為でなかったら・・・。





どちらにしても、黙って見過ごすことなど、今更出来よう筈もなかった。











御堂が本多に連絡を入れてきたのは翌日の昼だった。
あの後、本多は御堂が起きてから食べるものなどを買い揃えて彼が起きる前に部屋を後にしていた。

電話ごしの御堂の声はやはり覇気がなく、昨日見たいろいろなものを思い出し本多の表情を険しくさせる。

『藤田から事情を聞いた・・・かなり世話になってしまったようですまなかった。いろいろと揃えてくれたものも助かった。ありがとう。』
少し緊張の色が伺えるのは、本多が傷跡を見たかどうか危惧しているからだろうか。
なんでもない風を装って本多は対応することにした。
「いえ、急に倒れるから心配しましたよ。もう体調は平気なんすか?電話、会社からっすよね。休んだほうが良かったんじゃ・・・」
『身体のほうは、もう大丈夫だ。このごろ仕事が忙しかったから、それでだろう。会社を休むほどのことじゃない。』

たぶんあの傷を見ていなかったら何とも思わずに納得していた台詞だろうが、あれを見た後の本多にはやけに言い訳がましく聞こえた。


御堂は恐れている。
本多にあれを見られたのではないかと。


完全に御堂が望んでいる行為なら、声に恐れなど滲みはしないだろう。



だが全くの非合意だとしたら、犯罪ともいえそうなそれを何故第三者に話して助けを求めようとしないのだろうか。



『それで、世話になった礼に夕食でもどうかと思ったのだが、今夜空いているだろうか?』

渡りに船だ。


本多は御堂がそう望むようにあの傷のことをうやむやにするつもりはなかった。


たとえいらぬ世話であろうとも、放っておくべきではないと思うのだ。
御堂の体調不良があの傷の原因になった行為から来ているのは明らかなのだから。


本多は御堂の誘いを了承した。
レストランの名前と電話番号を告げて御堂が電話を切る。

短調な電子音を繰り返す受話器を本多は少しの間眺めた。


気を失った御堂が脳裏に蘇る。



このままにしておいたら、彼はいつか壊れてしまう。

それも、そう遠くない未来に。




どうしてここまで執着するのか分からない。


場合によっては個人の性的趣向に係わる問題なのだから、普段の本多であれば幾ら彼の正義感が騒ごうとも係わることは自制しただろう。




御堂だからだろうか?




急に浮かんだその可能性に本多は目を瞬かせた。



御堂だから放っておけないのか?


でも何故?


いくら昨日倒れたところを介抱したと言っても、つい最近知り合ったばかりの、それも親会社の上司だ。
確かに身近な人間といえばそうなのだろうが、付き合いは仕事上の本当に業務上のことだけで、親しく会話を交わした事だってない。

克哉がああいう傷をつけていたら迷わず干渉しただろうが、それは個人的にも付き合いが長いからで。


それに本多は御堂に、どちらかといえばマイナスの感情を抱いていたはずでもある。




答えは濃い靄の向こうにあるように、輪郭すら判然としなかった。












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