「・・・めろ、っ・・はなせ・・・・!」

「・・・?」


家路を急いでいた本多は、もうすぐ取り壊される予定らしい古アパートの裏手から聞こえてきた切羽詰った声にふと足を止めた。
時間を見ればもう日付が変わって一時間たつ。

週末の金曜日。
取引先との接待で心身ともに疲れているし、やっかいごとには巻き込まれたくない気分だ。
だが、微かな声と共に砂利の跳ねる音や何かがぶつかる音など不穏な音ばかり聞こえてくる。
只事でないのは明らかだ。

そうとわかってしまうと、見なかったことにして立ち去るなどということは出来なくなってしまう。


「・・・しょうがねぇな・・」


溜息を一つ零し、いざというときの為に携帯を片手に持ちながらボロアパートの敷地内へ足を踏み入れた。
そっと足音を忍ばせて建物の影から伺うと、駐車場になっているそこの壁辺りに複数の人影が見える。
壁に押さえつけられた1人を4人が取り囲んで蠢いている。
本多は眉を顰めた。
囲まれている人間はスーツを着た男だったが強盗しようとしている風には見えないのだ。

身体を押さえつけ、服を剥ぎ取ろうとしている動きと、男たちの目つきは明らかに・・・。

「まじかよ・・・」

とりあえず4人相手では分が悪いと、本田は携帯を操作した。
ディスプレイに110の文字が出る。
通話ボタンを押せばすぐにでもつながる状態だ。

足を踏み出す。
同時に、怒気に満ちた声が再び鼓膜を叩いた。


「このっ・・・離せ!!止めろといってるんだ!!!」



(ん・・・?)



聞き覚えのある声?

本多は首をかしげる。
聞いたことがあるような、ないような。

踏み出した足を戻して物陰から目を凝らす。


壁に押さえつけられた人物は身体の線の整った長身の男で、遠い外灯の光で判別できる髪の色は紫苑の艶を持った黒髪。

夜目にも映える白い顔は・・・



「御堂!?」



思わず出た声が存外に響いた。
第三者の出現に気付いた男たちが驚愕して本多のほうを振り返る。
しまった、と思いつつも退ける状態ではない。
「なにやってんだお前ら!!」
ドスの利いた本多の声がワン、と響く。
その怒声と、姿を現した本多の体格に男たちが怯んだ。
これ見よがしに携帯を掲げてみせる。
「通報すんぜ?いいのか?」
誰かがごくりと唾を飲む。
動かない彼らに見せ付けるように本多は大きく一歩踏み出した。

「チッ」
「くそ・・・」

舌打ちと小さな罵りの声が人数分上がり、男たちは蜘蛛の子を散らすように暗闇に逃げていった。
本音を言うと逃がすのは許しがたかったが四対一では無理が有る。

仕方ないと諦めてからまだ壁に背を預けたままの人物に目を転じると、目を瞠ってこちらを見ていた。


「えっと、大丈夫すか・・御堂部長」


ざっと確認した所、スーツのジャケットのボタンが外されてネクタイとベルトが解けかけている以外は大した乱れもない。
どうやら最悪の展開になる前に阻止できたのは間違いないようだ。

「あ、ああ・・・」

御堂はまだ混乱した様子で本多を見ながら何とか答える。
まだ現状を理解しきれていない彼を促して、とりあえず明るい公道へと移る。


その後も何か言いたげな様子のまま無言で。


近くの公園のベンチに座らせて缶コーヒーを買いにいき、手渡した所で漸く御堂が口を開いた。
「その、助かった・・・ありがとう。」
普段の御堂からは想像できないくらい聞き取りにくい声。
この一言を出すのにこんなに時間がかかるなんて、やっかいな性格をしてるよなと本多は若干呆れた。

不器用って言葉はこの男には可愛げが有りすぎる気がするが、多分その表現があっているんだろう。

「いいタイミングで通りかかって良かったっす。」
本多は不器用な御堂を若干微笑ましく思いながら明るい声で言った。
それから「ん?」と声を出して首をかしげる。
「そういえば何で部長こんなとこにいたんですか?家はMGNの近くだって克哉から聞いたんすけど。」
自宅でなくても御堂ほどの地位にある人間が用のある場所とは思えない。
不思議そうな顔をする本多に御堂が溜息で応じた。
「取引先の接待が長引いて、ここが終点の電車しかなかったんだ。タクシーを使おうと思ったんだが列が長かったから少し歩いて捕まえようと思って。」
そうしたらあの四人組に絡まれた、ということらしい。
オフィス街から帰る方向の電車よりも逆の電車は終電が早い。
確かに本多が駅に着いたとき逆方向の電車はもう動いていなかった。
御堂が缶コーヒーを飲みきった。
「悪いが、タクシーのいそうな通りを教えてくれないか。今日の礼は今度改めてさせてもらうから。」
そういって立ち上がる彼に合わせて本多もベンチを離れる。

タクシーが多い通りを頭の中で思い出そうとして、ふと御堂の背中を見る。


いつも威圧感さえ感じさせるそれから、今は覇気が感じられない。

あたりまえだ。


男とはいえ、あんな事の後なのだから。



「俺んち来ませんか?」



御堂の足が止まった。
「なんだって?」
眉を顰めた顔はミーティングで見慣れているが、いまのそれは困惑に揺れていてなんだか新鮮だ。
「すぐそこなんすよ。」
空き缶をくずかごに放り込んで、御堂の分も捨てようと手を差し出す。
言われるがままに差し出してしまうあたり、あまり頭が働いていないらしい。

「その、未遂だったとはいえ事が事っすから、1人でいるよりマシかなと思うんだけど」


ちょっと休んでから帰るほうがいいんじゃないすか?


屈託なく言う本多に御堂も毒気を抜かれる。
何かにつけて意見の合わない・・・というか、根本的に性格の相性がすこぶる悪いのだろうが、そんな相手を家に招こうとは。

一本気で単純なやつはこういうとき、本当に純粋な親切心で言ってくるから対処が難しいと御堂は少し眉を顰めた。

絶対に気まずい空気がながれるだろうという近い未来に思い当たればこんなことは言えないだろう。
もう少し後先考えて行動しろ、と言いそうになって、思いとどまる。

部屋にもどって1人で過ごすというのは、気が重くなる状況であることに違いない。


ちらりと本多を見れば、心配げに御堂を見ている。




久々に触れた、他意のない好意に、甘えてみたくなった。




「・・・・すまないが、邪魔させてもらう・・・」









本多のアパートは当然ながらこじんまりとした部屋だった。
整頓はされているのにどこか雑然として生活感が溢れているのが、この男らしいといえばそうだと御堂は少し笑った。
御堂の部屋を見たことこそ無いとはいえ生活水準の格差は考えるまでもなく明らかなので、
物珍しそうに部屋の中をみる御堂に気付いた本多はつれてきたことを一瞬後悔したが、性格上、開き直るのは早かった。
「すんません、汚くて。ソファに座ってください。何か飲みます?つっても、麦茶かビールしかないんすけど。」
いかにも彼らしい選択肢に御堂の口許が若干緩む。
「麦茶を頼む。」
アイボリーのソファに腰を下ろして改めて部屋の中を見回す。
少し離れたところにあるデスクの上には書類が山と置かれていて、御堂にも見覚えのあるそれはプロトファイバーの関連書類なのだろう。
散々ぶつくさ言いながらも全力を注いではいるらしい。
もっとも、御堂がもとめる“全力”はもっと上のレベルだが。
程なくして本多が麦茶の入ったコップを二つもって戻ってきた。
ソファが一つしかないので彼はデスクの椅子をローテーブルの正面まで動かしてきて座る。

それから極自然にネクタイに手を掛けてふと止まる。
視線に気づいた御堂がコップを置きながら目を上げた。

「なんだ」
「あ、いや・・・」
本多が言いよどむ。
ネクタイを解こうとしていた彼の視線の先には一分の隙も無く三つ揃えのスーツを着た御堂の姿。

それを見て御堂は合点が行った。

「私のことは気にするな。君の家だ。どんな格好をしても君の自由だろう。」
取引先の上司の前で自分だけスーツを脱ぐのを躊躇っているらしい本多にそう言ってやる。
仕事のときも八割がた勝手にネクタイを緩めてポケットに手を突っ込んで立っている男にも遠慮という感情はあるのか、と思いながらではあったが。
それでも脱ぎにくそうにしているので仕方なく御堂はもう一度口を開いた。

「いつもはネクタイを締めようともしないくせに変な男だな君は。私がネクタイを解けば気が済むか?」

苦笑というには意地の悪い笑みに気付いたのだろう。
本多がムッとした顔になった。

分かりやすい男だ。

「・・・・それじゃあ、遠慮なく」
不機嫌そうな声でいい、乱暴にネクタイを引き抜く。
そのまま立ち上がってジャケットも脱ぎ、ハンガーに掛けに行った。
御堂は本当に本多をからかっただけらしくネクタイも解こうとしていない。
別に脱いでほしいわけではないが、いくら自分の家とはいえ自分だけ寛いだ格好というのは居心地が悪い。

「ジャケットくらい脱いだらどうですか。掛けますよ。」

今日に限ってこの男は何に気を使っているのかと御堂は思ったが、ここで強情を張るのも労力の無駄だろうと彼の言葉に従うことにした。
するりと肩からジャケットを落とす御堂を本多は見るともなしに見る。

御堂の表情はいつもの落ち着き払ったそれで、男たちに襲われかけた直後に見せた動揺は欠片も残っていない。

だいたいあの時見せていた表情も、襲われそうになったショックというよりは本多が現れたことへの驚きが強かった気がする。


(・・・いくらなんでも落ち着きすぎじゃないか?)


本多はもちろん男に襲われたことなど無いから想像もできなかったが、普通強姦されそうになったらもっと動揺するとか怯えるとかしそうなものなのに。
一日着ていたはずなのに本多の物より遥かに皺の少ない、ものの良さそうなジャケットを受け取りハンガーに掛けながら想像を巡らせる。
「・・・もしかして御堂部長って何かの段もってたりするんすか?」
唐突も唐突なその質問に御堂が目を瞬かせる。

「段?何の話だ?」

不思議そうな顔は初めて見る表情だ。
そういえば頻繁に会う割りに見たことのある表情が少ない。

人を見下したような顔とか小ばかにしたような笑顔とか冷たそうな真顔とか不愉快そうな顔とか、そんなのばっかりだ。

「いや、だって、野郎に強姦されそうになった割りに落ち着いてるから。
 もしかして柔道とかの段をもってて、俺が助けなくても自力でなんとかできたのかなぁなんて。」
御堂は「ああ」と合点がいったように言ってから、口の端を心持ち上げて首を振った。

なんだか自嘲的で、彼に似合わない笑みだと、本多は何となく思う。

「・・・落ち着いている、か。そうかもな・・・流石に一日の間に二度も男からそういう興味を持たれては、驚きを通り越して呆れたくもなる。」


今度は本多が目を瞬かせた。



え、今、さらっと凄いこと言わなかったか?



「え、今なんつった?二度?」

ってことはさっきのヤツの前に一度何かされてたってことか?!
身を乗り出した本多を御堂が呆れた目で見た。
「君がそんなに動揺してどうする。」
「す、すみません・・・?」
謝る語尾が上がる。

いや、俺がおかしいんじゃなくてコイツが落ち着きすぎなんだ、絶対。
今の俺の反応はノーマルだ。

「いや、二度目って事は接待中になにかあったんですか??」
椅子に座りなおした本多から御堂が視線を反らせる。
白い頬が少し赤くなっているのは幻覚か?
「・・・・取引先の社長に・・尻を撫でられた、だけだ」
思わず感嘆の声が漏れた。

「へぇ・・・命知らずな物好きもいるもんですね」

本多からしてみれば、時々悪魔の尻尾が生えているのを疑いたくなるような上司にセクハラをするなんてといった感じだ。
何となく失礼な言い方に御堂は眉根を微妙に寄せたが、自分も同じ感想を抱いていたので特に何もいわなかった。

「で、どうしたんですか、ソイツ。まさか契約とかをエサにされて泣き寝入りすか?」
今度こそ御堂は不快気に眉を思い切り寄せた。
「そんな訳があるか。キクチならともかく、MGNが何故そこまで下に出なければならない。」
不機嫌そうな声とさりげない格差アピールに本多のトーンも下がる。
「じゃあどうしたんすか。」

御堂がニッと笑った。

この笑顔なら本多も見たことがある。
得意げで意地悪げな笑い方だ。
顔が整っているから余計に癪に障ると常々思っているが、今は言わないでおく。

「逆手に取って契約条件を吊り上げてやった。」

うわ、と思わず声が漏れる。


「あんた、えげつないな結構・・・」


セクハラされて抗議とか告訴よりもまず契約とは。
まあ泣き寝入りするより御堂らしいといえば御堂らしいが。


本多の感想で御堂の笑みが消える。
「えげつないとはなんだ。私は被害者だぞ。当然の報復だ。」
こんな男に手を出してしまった取引先の社長がかわいそうにも思えてくるのは、本多がマイナスの感情を御堂に抱きすぎているからだろうか。

(しかしやっぱり対応が慣れてるよな・・・)

初めてだったら絶対にそんな反応は出来ないだろう。
ということは何度もやられたことがあるんだろうか。

本多は御堂を上から下まで眺めてみた。


(・・・・改めてみると綺麗な顔してんだな、コイツ)


いつもはデカい態度とか横柄な言い方にカチンと来てばかりで悪魔にも見えるのだが、そういう感情を排してみれば、御堂の容姿はかなり整っている。

形の良い眉、スッと通った鼻梁、切れ長の目には藤紫の瞳、長い睫、端麗な唇。
輪郭も端整だ。
それに細身の長身にすらりとした長い脚。

本多の視線はそこで、御堂の腰に吸い寄せられた。

(細・・っ)

ジャケットを脱いだ御堂はYシャツにベスト姿で、驚くほど細い腰が無防備に晒されている。


確かに、と本多は納得した。
相手にそういう気があれば御堂はかなり魅力的かもしれない。


(コイツに手を出すなんてどんな物好きかと思ったけど・・・セクハラされんのも頷ける容姿かも)


普段は自分たち相手に威圧的な態度を取っていても御堂にも上司はいるわけで。
案外直属の上司の大隈なんとかってやつは日常的にこの部下にセクハラしてるのかも・・・などと考えるのは
さっき彼に手を出す人間を「命知らずな物好き」といった手前現金かもしれないが・・・まるっきり間違いとも言い切れない気がする。


と、考えながら見ていたら、凍りつくような声が突き刺さった。


「・・・本多、何をジロジロ見ている」


ギクッとした本多は咄嗟に。
咄嗟に、正直に答えてしまった。


「え、いや、言われてみれば御堂部長ってかなり美人だよなぁって思って・・・っ、ゲ・・」


自分が何を口走ったのか我に返り、叱責が飛んでくるだろうと思わず身を竦めた・・・の、だが。



いつまでたっても鋭い声が飛んでこないので恐る恐る視線をあげると。

ぽかん、とした顔の御堂がいて。



「・・・・っ」



本多はそのあまりにも無防備な表情に小さく息を呑んだ。


瞬間、御堂の頬が薔薇でも咲いたように赤く染まった。


「な、何を言ってるんだ君はッッ!」


怒鳴り声だったのだが、動揺に上ずったそれは怖いというより・・・可愛い。
自分で思ったことに、本多はギョッとした。


(可愛い、だって!?)


この、傲慢で自信家で嫌になるほど出来すぎて偉そうで居丈高で陰険な鬼上司が!?


思わずまたマジマジと御堂を見てしまう。
その視線に彼の表情がまた歪んだ。

「何を見ている!」

顔も声も、明らかに焦っている。
そんな、いつもは絶対にしない表情をするものだから、ついまた思ったことが口に出てしまった。


「いや、御堂部長って可愛いなぁ・・・って」
「なっ・・・」


御堂の頬がまた赤くなった。
三十路なのに頬を赤らめて可愛いなんて反則だよなと見つめる本多を真ん丸くした紫苑の瞳で見たまま、
御堂は声を出すことも出来ないのかパクパクと口を動かすばかりだ。

やがてグ、と悔しそうに唇を噛んだ。

一方的にからかわれている状態に御堂のなかから猛烈な不快感が沸きあがったからだ。
ガツンと音をさせて乱暴にコップをテーブルに置く。



「・・・帰る。」



本多がその言葉の意味に思い当たった時、御堂はハンガーに掛かったジャケットを取って玄関に向かおうとしていた。


「え、ちょ、待てって!」


親切心で招き入れたとはいえ泊める気まではなかったはずなのに、御堂を帰したくないという思いが衝動的に彼を支配した。
咄嗟に手を伸ばして御堂の腕を掴む。

しっかりと掴んだのなら本多の握力に御堂が叶うはずはなかったのだが、なまじ用意もなく掴んだために大きく腕を振られただけで簡単にかわされた。


「うわぁっ!?」


思い切りバランスの悪い体勢で御堂を捕まえようとしていた本多が大きく蹈鞴(たたら)を踏む。



御堂が咄嗟に身を捩って避けたために踏み出した本多の足はバランスを取るのに成功する前に積んであった雑誌の山に当たって。





「危ないっ!!」





御堂の声と、派手な衝突音が狭い部屋に響き渡った。











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