「くそッ」

手を伸ばした紙箱にタバコは既に無く、佐伯は苛立ち任せてそれを握りつぶすとゴミ箱に放り投げた。
ひしゃげた箱はゴミ箱の淵に当たって弾かれ、ぽとりと地面に落ちる。
「チッ」
苛立って苛立って仕方ない。
タバコの自動販売機を求めて公園に入った。


脳裏に蘇るのは口づけを交わす御堂と本多の姿。
そして本多を抱きしめる御堂の腕。

腹の中で何かが煮えたぎる。


喉を競り上がって叫び出しそうな感情は一体なんなのか。

切り札の本多を盾に取れば後は簡単に堕ちるだろうと思っていた御堂が一向に思い通りにならないことへの苛立ちなのか。



抱えきれない己の激情に佐伯は戸惑ってさえいた。



何度も、何度も、本多に縋り付いてキスをする御堂が再生される。


ありったけの力で引き離そうとしても縋り付いて離れなかった白い腕。

本多に口づける御堂の恍惚とした表情。

愛しそうに、狂おしげに、本多を見つめる彼の瞳。




思い出したくもないそれが勝手に瞼の裏を過っていく度、どこかが苦しい。




「くそっ…なんだっていうんだ…」


俺は何を考えてる?
俺は御堂をどうしたい?
あいつが堕ちてくることを望んでいるはず…だ。
支配者面をしたあの男を辱め、すべて剥ぎ取って丸裸にして…。
屈辱にのたうつ御堂を見るのが何よりも快感だったはず。
恥辱に塗れさせ、己の足下に跪かせて。
そうして快楽を求めて俺に媚びる奴隷になればそれで満足なはずだ。
それが本多の存在で妨げられているから不快なだけ。
そのはずだ。

なのに何故、あそこまで本多の前で御堂を辱めたにもかかわらず欠片の快感も覚えないのか。


重く淀むようなこの不快感は一体なんだ?

思い通りにならないことに苛立っている?


それだけか?


自販機のボタンを叩くように押し、タバコを取り出す。
火をつけようとするが、ライターがない。
「ッ…!」
苛立ちが頂点に達したその時。


「”火”をお求めですか?」


詠うような声が背後から響いた。
佐伯は数瞬沈黙して、無表情に背後を振り返る。
「…何の用だ。」
視界には予想通り、闇に解けそうな黒装束を纏った金髪の男が”居た”。
明らかに彼を疎んじる佐伯の表情にニコリと笑ってみせる。
「私が必要かと思いまして。」
「必要ない。」
にべもなく返すが、男は笑みを深めるだけだ。
「我が王にしては随分と手こずっていらっしゃるようですね。」
何故知っているのかなど、この男相手に問うだけ時間の無駄。
佐伯はふん、と鼻で笑った。
「それで?お前は俺を不快にさせる為にわざわざ出てきたのか?」
帽子の奥で丸渕の眼鏡がキラリと光る。
体温を感じない唇が柔らかな弧を描いた。
竪琴を弾くような笑い声が闇をかすかに震わせる。
「まさか。王にそのような無礼はいたしません。」
なら何をしにきた。
佐伯が無言で見据えれば、また、笑みが深くなる。

「よろしければ私が、聞き分けのない下賎の者をお引き取りいたしましょうか、と申し上げに参りました。」

「…何?」
佐伯の眉が不快そうに顰められる。


引き取る?
御堂を?
こいつが?


「私ならどれほど愚劣な人間でも貴方のお好みの可愛い奴隷に仕立て上げてお返しできますよ。」
「貴様が御堂を調教するといっているのか?」
「ふふ、お分かりの事を敢えて問われるなど聡明な我が王らしくもない。」

佐伯の胸に、覚えのある不快感が沸き上がった。



こいつが御堂を調教する?

こいつが御堂に触れる?

こいつが御堂を屈服させる?


御堂が、こいつに隷属する、だと?



Mr.Rを貫いた佐伯の眼光は殺意さえ含みそうなほど激しく、だが、目で殺すには混沌とした感情の渦に足を取られていた。

「失せろ。」
可愛らしい…という呟きの代わりに笑い声を紡ぐ。
「おや、必要ありませんでしたか?」
「必要ない。あれは俺のものだ。」
言い捨て、公園を後にしようとする背中を静かな一声が追った。


「貴方の…何、なんでしょうね、一体。」


「っ」
息をのんで振り返る。
だが、振り返った先には、いつもと変わりない夜の公園があるだけだった。
「…」
ずれてもいない眼鏡を直し、佐伯は踵を返す。


その後ろ姿を、黒い人影はずっと見やっていた。
「ふふ…本当に貴方は私を退屈させない…理想の玩具ですよ。」

本当の想いに気づく時が、願わくは、取り返しのつかない未来であるように。


抱いていた愚かな想いに気づき、絶望し…そして…



「堕ちていらっしゃい、私の元へ…」



邪悪な祈りを夜闇に預け、黒衣の男は消えるようにその場を去った。



背に魔手をのばさんとする存在に気づかぬ佐伯はその足を御堂のマンションへ進めながら、苛立ちばかりを募らせていた。
数日前、初めて二人の関係を知った日の御堂と本多が眼裏を過る。
幸せそうな御堂の微笑み。
温かい本多の瞳。
玄関口で交わされたやわらかな抱擁。
本多の後ろ姿を見送る御堂は、佐伯が一度として見た事の無い表情をしていた。
心から幸福そうな笑みが、佐伯の心の底に凍り付いて見えない感情にヒビを入れる。

どこかで感じる鈍痛の名を知らせぬまま、記憶が次々と蘇る。

この手に堕ちる寸前だった御堂がある日蘇らせた強い意志の光…あれは、本多と想いを通じ合わせた頃からではなかったか。
痛めつけるといつからか、唇が決まった形に動くようになってはいなかったか。
あの唇の形はおそらく、「ほ・ん・だ」

佐伯の暴虐に耐えながら御堂は心の中で本多に縋り付いていたのだ。


「…っ」


また、胸の底の名も知らぬ感情が鈍く痛みを訴える。


” 俺は御堂の身体を抱いたんじゃねぇ。お前みたいに動物よろしく性欲を追ったわけでもない。俺は御堂を愛してる。御堂も俺を。
 ・・・他人を踏みにじって悦んでるような変態にはわからねぇだろうけどな。”



そう言った本多の瞳の奥に、御堂との強い絆が見えたことも。

佐伯が御堂を貶めようとした昨夜の行為の最中も二人の間に通った何かが決して穢れはしなかった事も。


すべてが、佐伯の胸に鈍痛を生み出す。


だが、彼にはその源を見つける事が出来ない。
だから、不可解なその痛みの全てを支配欲へ帰結させる。
言いなりにならない獲物に苛立っているだけ。
己の獲物を横合いから掠めとろうとする男に不快感を募らせているだけ。


すべては御堂を屈服させれば解決する。




「俺に隷属しろ、御堂」




蹴破るようにドアを開け放ち、佐伯は息も荒く言い放った。
碧眼に正気の色が薄い。
御堂と本多は息をのんだ。

佐伯の右手で、鈍い光を返す包丁が、その存在を主張していたからだ。

「俺に隷属しろ!御堂!!」
御堂は答えに窮する。
拒絶するのは簡単だ。

その刃が自分だけに向くのであったら、なんどでも否定の答えを返しただろう。


だが。


紫苑の瞳が正面へ流れる。
茶褐色のそれもまた、彼を見ていた。


佐伯が一歩一歩、近づいてくる。
「俺に隷属しろ。俺に跪いて、俺に奉仕しろ。お前は俺の性奴隷だ。」
刃先が顎を持ち上げる。
「俺以外の人間の事を考えるのも許さない。お前は俺に従属して、俺の事だけを考え、俺を銜えこんで、俺を愉しませる…それでいいんだ。」
歌うような声が頭の中で反響する。


”貴方のなんなのでしょうね、一体”



これは俺の玩具だ。


これは俺の奴隷だ。




それ以上の何物でもない。




御堂と本多の口づけに激烈な不快感が吹き出したのは、単に己の思い通りになるべき奴隷がそうならないから。
己の奴隷が他人に従うのが許せないから。

それだけだ。




それ以外の感情など、微塵も存在しない。





「御堂、返事をしろ。」

己を見据える瞳は反抗心に満ち、殺意さえも伝えてくる。
佐伯が二人の関係を知ったあの日、彼が本多に向ける瞳にあった柔らかで温かな光は一欠片として存在しない。

腹の底で煮え返る重く暗い感情の名を佐伯は知らない。


その根底にある、本当の感情の存在に、気づく事も出来ない。



「わかりました、だ、御堂。言え。言わないならアイツを切り付ける。」



御堂と本多の仲を引き裂き、御堂の視線を己に向かわせたい。


その感情の名が、己が御堂に抱く本当の感情の名が、佐伯には分からない。



ままごとのような恋愛しか知らない子供でさえ分かるだろうのに。







当然、本多は気づいてしまった。
己に向かって包丁を振り上げた男が、御堂に対して抱いている本当の感情に。






「やめろ!!!!!!!!」






この滑稽な空間の中でただ一人、本多だけが、気づいた。







「懇願しろ。」
「や、めて…くだ、さい……おねがい、します…」








だが、彼に出来る事は何一つ無かった。

彼は何もかも奪われていた。


言葉さえも。




彼に出来る事は、




「なんでも俺の言う通りにすると言え。」






己の気持ちすら分からず暴虐に走る道化のような男と、その犠牲に選ばれた愛しい人の繰り広げる残酷な喜劇を






「…っ、なんでも、いうとおりに…します……。」









ただ傍観する事だけだった。













御堂は奥歯を軋むほど噛んで、沸き上がる屈辱を殺した。


何も重大な事ではない。
ただ言葉の上だけでこの男に従う振りをしていればそれでいい。
本多を傷つけるわけにはいかない。
たとえ本多本人がそれを望まなくとも。

焦点の向こうで必死に首を横に振る彼を御堂はそっと瞼で遮断した。



佐伯がどんなことをさせようとも、己の身体がどうそれに従おうとも、心だけは絶対に明け渡さない。
せいぜい上面の従順に逆上せ上がって道化を演じていれば良い。



私の心は絶対に本多を裏切らない。



(貴様に命をやることになっても心だけは絶対に渡さない。)



御堂は全霊の拒絶を込めて佐伯を睨み上げた。
それを見て一瞬浮かんだ激情を嘲笑に変えて佐伯は御堂を嗤う。

「ふ、反抗的な目が出来るのも今のうちだ。」





佐伯には御堂を屈従させる未来を妄信していた。


御堂は先を見る事をやめてしまった。




本多にだけ、絶望が見えていた。







茶褐色の瞳から涙が零れ落ちる。














自分たちはどこで何を掛け違えてしまったのだろうか。
























「舐めろ」
仕事から帰るなり佐伯は御堂に命じた。
長い鎖のついた首輪の他の拘束を外された御堂が黙ってその前に膝をつく。

これが、ここ最近の始まりの合図。

”隷属”の日々をどれほど繰り返したのか御堂はすでに覚えていない。

ただ、日、一日、押し殺され続けた心が叫び上げる悲鳴が強くなっている。
たとえ上辺だけの従属であっても、心から想う人間の前で他の男に膝を折り唯々諾々と淫らな行為を強いられる毎日は御堂の芯を確実に蝕んでいた。
本多の視線を感じながら両手でバックルを外す。
御堂の痴態を見る事を命じられ、自らの身体を傷つけられても本多はそれを拒んだが…御堂に向けられた刃には抵抗できなかった。
チャックを下ろし、まだ鎮まったままの性器を取り出す。
口に入れると、慣れた味と臭いが舌と鼻腔を打ちのめす。
「んっ…く……」

佐伯がどこをどう刺激すれば悦ぶのか、知りたくもないのに知り尽くしている。


だが、もう本多のそれを思い出せない。


本多の肌の感触も、体温も、自らを抱きしめる腕の強さも…もう思い出せない。

本多がどんなに熱く自分を求めてくれたのか、もう思い出せない。



佐伯の欲望はこうも易々と育てる事が出来るのに。




「相変わらず、旨そうにしゃぶりますね…そんなに俺のコレが好きですか」
黙れ、本多のことさえなかったら噛み切ってやりたい位だ。
最初の頃浮かんでいたそんな罵りも、もう片隅にさえ浮かべる気力が無い。
ただ従順に、殺したいほど憎い男の肉棒に吸い付く。
そしてだいぶ前に強制された通り、今度は男の先走りに塗れた指を己の後孔に差し入れた。
「んんっ、ぅ、んぐ…ッ」


本多の視線が心を焼く。


それが目の前の男の魂胆だと分かっていても。



”なにがあっても俺は貴方を愛し続ける”

あの言葉に偽りはないのだと分かっていても。




(もう、長い間…君の声さえきけてない)





恥辱の日々に砕けそうになる心を支えるのは、記憶に残る姿ばかり。



自分は、弱い。
本多を信じているのに、彼の顔が見れない。




佐伯が首輪の他の枷を外し壁際から解放した事を幸いとさえ思った。
恋人のようなまねをさせて御堂を追いつめたいのか、最近佐伯は彼をベッドで抱く。

散々貪られ、そこに放置され、それから佐伯が帰ってくるまでそこで踞って彼の視線から逃げる。



彼が向ける視線に気づいている。

まっすぐなその想いが、今の自分には重い。



変わらず本多を愛している。


本多も変わらず自分を愛してくれていると分かっている。



それでも、じわりじわりと、黒い闇が這いよってくる。





お前に本多を愛する資格は無い
お前に本多に愛される資格は無い

陵辱者に脚を開いて

淫らに銜えこんで

淫蕩に腰を振って善がって

被害者面をしながら嬌声を上げて快楽を貪って




――――穢らわしい




「もういい、御堂…見せてみろ」
佐伯の言葉に身体を反転させ、獣のように這いつくばって尻の穴を広げてみせる。







――――吐き気がする








ひくひくと浅ましく男を誘う”性器”に満足げな声が降り掛かる。
「ほら、御堂さん、おねだりは?」
”飼い主”の命令に唇が動く。
滑稽な姿で尻の穴を見せつけながら。
男を誘う。
「い、れて…突いて、ください……」












――――死んでしまえばいい




消えてしまえばいい



殺したいほど憎い男の性欲処理の道具に成り下がった身体など腐って朽ち果てればいい










でも―――










快楽の熱に溺れた瞳が横に流れる。

茶褐色の瞳は、変わらぬ愛情を一杯に湛えて迷う事無くこちらを見ていた。













本多――――




君が居るから





私は
御堂孝典である事をやめたくない











―――あいしている











どれほど無様な姿を晒しても






どれほど滑稽なピエロを演じようとも










(守りたい)









身体がどこまで穢れても、君を思う心だけは。















しかし、それももう、無理かもしれない。




「あっ、は、ああっ、ん、ッ、い、い…ッ」




男の玩具に成り下がる身体に心が引きずられる。












必死に守り抜こうとする盾に、亀裂が走る。

耐えきれず、自分を殺したいという思いが、自分を守りたい、その気持ちをも打ち砕こうとする。















…もし、この盾が砕ける日が来るのなら
いや、もし、この盾の砕ける日が来たとしても




















(君の目の前では、最後の一秒まで…「御堂孝典」として生き抜きたい)
























>>NEXT>>>>>




実は今回、眼鏡による陵辱大会のはずだったんですが、御堂さんの心情描写をしたらこっちのほうがしっくり来たのでエロは大幅にカットしました。
エロを期待されていた方にはちょっと申し訳ないんですが、書きたいことはかけたので私としてはこれでよかったかなと。
次回からエンディングに向かって話が激動していきます。
そんなにお待たせせずに読んで頂きたいので・・・尽力します;