「お、今日は克哉か」
佐伯が本多の食料を手に部屋を訪ねるとドアを開けた家主が安心したような声を上げた。
入るぞ、と断って答えを聞かずに上がりこむが抗議するでもなく後ろから付いてくる。

本当に記憶がないのかと疑いたくなる程に何時もどおりだ。

「昨日は御堂部長が来てさ。今日もあの人だったらどうしようかと思ってたんだ」
片桐が作ってタッパーに入れた料理を皿にあけてラップを被せていると、見るともなしにそれを見ていた本多が言う。
佐伯は少し意外そうに眉を上げた。

御堂と本多が恋愛関係にあると知っているからだ。

本多に鎌をかけたら易々と自爆した。
頼むから俺がドジ踏んだことは御堂に言わないでくれと懇願されたから、御堂は佐伯が彼らのことを知っているとは夢にも思っていない。

「御堂が苦手か?」
まあ、付き合う前の彼らを見ていれば納得できるが。
なまじ御堂にベタ惚れな本多を嫌と言うほど知っているだけに、記憶が無いにしても、ここまであからさまなのは意外だった。
「うーん、まあな。なんか取っ付きにくいし何考えてるのかわかんねぇし。昨日も料理だけして禄に話しもしないで帰っちまったし。」
(ほぉ?)
どうやら御堂は記憶のない本多と一緒にいるのが相当堪えるらしい。
高慢なあの男が参っている様子は想像するに割りと愉快なことではある。
だが確かに、一日前まで鬱陶しいほどに好意を振りまいていた人間が掌を返すようにこの態度では苦痛を感じないほうがおかしいかもしれない。
佐伯は片桐が自分の記憶をなくしたと仮定してみた。
(あの人の場合は見ているほうが申し訳なくなるくらい、忘れたことを悔やんで意気消沈しそうだが)

恐らく本多が普段どおり過ぎる事も原因なのだろう。


自分以外にはまるで記憶喪失など嘘のように振舞っているのに自分にだけ豹変したような態度を取られて、心穏やかではいられないに違いなかった。


「だから俺とあの人が親しかったって、まだ信じられねぇんだよなぁ・・・。なあ、俺とあの人ってホントに仲良かったのか?」
佐伯は内心で少し首をかしげた。
御堂が言ったのだろうか?
「何故そう思う」
(自分から“私とお前は親しかった”などと言う可愛げは無いと思ったが)

スープを鍋に開けて暖めようと、鍋を探す。
その動作を本多が指差した。

「そう、それだよそれ。」

相変わらず、時々ついていけない表現をする男だ。
「は?」
「あの人な、料理作るとき何がどこにあるのか全部知ってたんだ。」
「ああ・・・」
そういえば御堂は料理がうまいのだと本多にのろけられたことがあった。
「相当ここに慣れてたから、そんだけ親しいんだろうと思って。」
「それでお前は御堂にそう聞いたのか?」
見つけた鍋にタッパーのスープを入れながらチラリと見ると本多が頷いた。
その時の御堂の心情は同情して然るべきだろうな、と思う。
「あの人と俺ってホント、お互い近づこうとしなそうなタイプだろ?だからそう言ったんだ。その後すぐ帰っちまったから詳しくは聞けなかったけど。」
佐伯はため息をついた。



まったく無神経な男だ。

こいつのことだから思いつくまま本音を並べたんだろう、その“お互い近づこうとしないタイプ”の詳細を列挙して。



御堂が相当惨めな思いをしたのは想像に難くない。

その様子を思い描いて笑ってやっても良かったが、そういう気分にもならなかった。
どうも最近、のほほんとした年上の恋人に角を削られてきていると思う。




「あのな、本多」

ここは先に言っておいたほうが良いだろうと佐伯は判断した。


「お前と御堂は恋人同士だぞ」



もし何かの弾みでそれを本人が知って、





「はああぁ!?」





御堂が目の前でこのリアクションをされたら余りに酷な気がした。





あんぐりと開いた口を意味もなく開閉しながら目を丸くして本多が佐伯を見る。
御堂に見せなくて正解だった。
さて、このリアクションから守ってやった貸しはどう返してもらおうか。
驚愕しながら何やらわめいている本多を視界の外に追いやりつつ、佐伯は思案した。












居心地が悪い。

再び片桐に頼まれて本多の夕食を作りながら、御堂は前回と違う居心地の悪さを感じた。


原因は、先ほどから無言で背中に打ち込まれてくる物問いたげな本多の視線だ。
彼を部屋に迎え入れたときからずっと、何を言うでもなく同じ視線を投げかけてくる。


(なんなんだ、一体・・・)


御堂は手の動きを早くした。
少しでも早く料理を作ってさっさと帰ってしまいたかったのだ。
また前のような物言いをされたら、今度こそ感情を抑えられる自信がない。
そういえば今日、片桐から託されたという本多の食料を手渡すとき佐伯が意味ありげなことを言っていた。
『また私が行くのか』
という御堂に薄く笑い返して
『行きたくないのはわかりますが、本多が貴方に聞きたいことがあるようでしたし、いってあげてください。』
とか、言っていた。

それでこの物言いたげな視線だ。

いい加減耐え切れなくなって、御堂は視線を手元にとどめたまま後ろに声をかけた。
「さっきから何か聞きたそうだが、何だ」
へっ?と間の抜けた声が上がる。
数秒の沈黙の後「その・・」と本多が口を開いた。
「克哉から聞いたんですけど・・・・・・うぅ・・・」
「・・・・何だ」
言い始めてすぐ言い澱む本多に御堂の声が若干尖る。

しかしその苛々は、次の言葉に弾けとんだ。



「俺と御堂部長が恋人同士だったって、ホントですか」



思わず、勢い良く御堂は本多を振り返る。

そして更に打ちのめされた。



御堂を見る本多の顔には、疑念と若干の恐れと、そして、紛れも無い期待があった。





それが佐伯の嘘か冗談であってほしいという、期待だ。





否定するべきだと御堂は思った。
どうせ記憶が戻るまでの短いスパンのこと。
余計な情報など入れなくていいはずだ。

それも、知ったところで本人を混乱させるだけの事実など、忘れたままのほうが。



本人も御堂が否定することを望んでいるようなのだし・・・。







御堂は無言で元通り本多に背中を向けた。
そうして無理に笑い声をひねり出す。
「安心しろ、佐伯の気の利かない、冗談だ」

ですよね、という声が返ってきた。
だが御堂が危惧したほどそこに安心の色は滲んでいなかった。

「俺も、こうも何から何まで違う御堂さんと恋人だったなんて信じられなくて」


(何故過去形で言うんだ)


フライパンを握る御堂の手に力が入る。




勝手に忘れているだけのくせに、何故、私と本多の仲を過去のことのように言う?




無意識に奥歯を食いしばった彼の耳に、本多の「でも」という声が聞こえた。


「でも、克哉のいう事が本当だったら俺、御堂さんにすげぇ酷いこと言ったことになるから心配で・・・」


そういう彼の声は真摯で、御堂は手を動かせなくなる。
本多はそっと近づいて、料理を焦がし始めたコンロの火を消した。
俯いたままの御堂の顔を覗き込んで目を合わせる。

そうして静かに聞いた。



「御堂さん、俺と貴方は本当に、親しいだけの上司と部下ですか?」



肯定するべきなのか否定するべきなのか、今度こそ御堂にはわからなくなった。
その逡巡の沈黙が本多に答えを教えてしまい。
彼が答えを悟ったことを察して身を固くした御堂を、本多の腕が包み込んだ。
「っ・・・!」
「すみませんでした・・・無神経なこといって、傷つけた・・・」
慣れた体温に絆されそうになる。
御堂はそれでも本多を押しのけた。

「無理に真似事などするな。」

冷たいその声に本多が言葉を失う。
御堂は彼の横をすり抜けようとして足を止め、すこし香ばしくなってしまった料理を手早く器に盛った。
立ち尽くす本多を尻目にそれを何時も彼が食事を取るテーブルにおいて、上着を羽織る。

「隠し通せなくてすまなかったな。もうここへは来ないから、
 無理に気を使わなくてもいいし、態度を取り繕わなくてもいい・・・・料理、すこし焦げてしまってわるかった。」


踵を返す直前、御堂の顔にフッと笑みが乗った。



触れたら割れそうに儚げな笑み。



思わず本多は彼の腕をつかまえていた。
「・・・・離してくれないか」
御堂の声は冷たい。
だが今度は離さなかった。
「いやです」
「離せ」
「離しません」
「本多!」

「御堂さんのこと早く思い出すから、だから、傍にいてくれ・・・!」


もう、わけが分からない。
この前はあんなに自分のことが苦手だと言っていたくせに、今度はまた掌を返したようにこの台詞。


御堂は思い切り本多の手を振りほどいた。




「いい加減にしろ!!相性が悪そうだ何だと延々言ったのは君のほうじゃないか!」




馬鹿にするなと怒鳴ってやりたかった。
だが、睨みすえた先で大きな身体をした男が叱られた犬のような風情でいるものだから、御堂はそれ以上言えなかった。

既視感が邪魔をして強く言えない。


記憶をなくす前の本多とリアクションが同じだったから。


「それは本当に申し訳ないと思ってます・・・その、俺、あんまり深く考えずに言いたい事言っちまう時があって・・・。
 御堂さんと恋人だったなんて思わなかったからってのは、言い訳にしかならねぇけど・・・」


そう言って今度は御堂の手を取ることなく、縋るようにも見える目で彼を見てくる。



「俺、早く御堂さんのこと思い出したいんです。御堂さんが傍にいてくれれば、いろいろ思い出すことも多いと思うから・・・。」



反則だ、と思う。

御堂はこういうときの本多の、捨てられた犬のような態度に弱いと自覚がある。



自覚があるのだが、いつも振り払えないのだ。



ふぅ、とため息が漏れた。





「・・・好きにしろ・・」






その途端大好物を目の前に「良し」と言われた犬のように、飛び上がらんばかりに目を輝かせるのも、いつも通りだった。












「本多、・・・」

先にシャワーを使ったと告げようとソファを覗き込んで御堂は言葉を止めた。
ソファの座り心地に負けたように、大きな身体を沈ませてぐっすり眠っている。
(今日は少し気を張る場所に行ったからな)
小さく笑い、背にかけられたジャケットとネクタイをハンガーにかけてやった。
週末、御堂の時間が空くと彼は本多をつれて以前二人で訪れた場所へ足を運んでいた。
早く記憶を取り戻したいというのに応えて、記憶の刺激になればと、ほぼ毎週末いろいろな場所に行っている。
今日はクラシックコンサートを聴きに。

朝行き先を聞いて「服がないっすよ」と言われた。
クローゼットに御堂が贈った一張羅があるのを見ていなかっただけだが、御堂が感じたのは何度同じような事があっても慣れることの出来ない寂寥感で。


ジャケットにブラシをかけてやりながら、コンサートホールに着いた時の本多の感想がふと蘇った。



『あ、なんか初めてっすね。完全に御堂さんの趣味って場所に来たの。』
それから少し照れくさそうに笑って
『今思ったんですけど、結構俺が行くとことかしたいこととか決めてました?もしかして』



自分は何と答えたか。
思い出せないが、とりあえず肯定した。


御堂は眠る本多の傍らに膝を付いた。





そう、いつも、本多が御堂をひっぱっていた。



思いを告げたのも彼が先。

付き合い始めてからも、二人で会おうと誘うのも彼だったし、外出先を決めるのも殆ど本多がしていた。


想いを言葉にする回数も、比にならないほど本多のほうが多かった。





はらりと落ちてきた前髪をそっと退けてやる。
気持ちよさそうに眠る本多を見つめる御堂の表情は酷く寂しげだ。





御堂が想いの一方通行を経験するのは、思えば今が初めてだ。

いつも本多が暑苦しいほど熱烈に御堂にラブコールを送っていて、御堂はそれを適当にあしらっているだけだった。


相手から期待した反応が得られないのは辛いものだと身をもって思い知ったのも初めてだった。


そういえば本多は時々、不安なのだと不満を爆発させることが有った。




(本多はこんな気分を、ずっと味わっていたんだろうか・・・?)




最も、御堂が冷たいそぶりを見せるのは好意の裏返しで、今の本多には御堂への恋心そのものが無いのだから事情は違うが。
最初は態度がぎこちなかった本多も、最近は御堂と行動を共にするのが慣れたのか、敬語も空気も砕けてはいる。
表面上の態度だけ見ていれば、スキンシップが無いという事以外は以前と同じようにも思える。

だがやはり、違うのだ。


ぽっかりと穴が開いたように“恋愛”と名の付く感情が抜け落ちただけで、普段の何気ない一コマに喪失感が漂う。




御堂を見るブラウンの目に愛情や慈しみがない。

くるくると良く変わる表情にも、何かが足りない。


気付くと時折そこにあった、真摯な表情も見たことが無い。


力強く、しかし同時に優しかった抱擁もない。


ふとした瞬間にしていた掠め取るようなキスも。


叱り付けても止めなかったセクシャルな悪戯も。




狂おしいほどに求めてきた、あの熱も。





「・・・っ」
本多の寝顔が滲んで、御堂はあわてて目を瞬かせるとそれを追い払った。
起きる気配は無い。


「好きだ好きだと言って、散々私にそれを刻み込んだくせに・・・自分だけさっぱり忘れるな、馬鹿」


罵るにしろ、詰るにしろ、その声は余りにも哀しそうだった。


御堂自身にも自分の声は弱弱しく聞こえ、己の軟弱さに小さく首を振ると振り払うように立ち上がって寝室へ向かった。
本多が御堂の部屋に泊まるのは初めてではない。
起きたら勝手にシャワーを浴びられるし、寝る場所も確保できるだろう。


とにかく眠ってしまいたかった。

今から眠るまでに嫌というほど情けない思考をくりかえすにしても、眠ってしまえば思い悩むこともない。





後ろ手にドアを閉めた御堂は、ソファに横たわる本多の視線が彼の背中に注がれていたことを知らなかった。





のそりと身体を起こす。
指が触れそうで触れなくて、不思議な感触の残された額をそっと手で触れる。
触られたと表現して良いのか分からないが、御堂から本多に触れてきたのは初めてだった。
立ち上がって、バスルームに向かう。
御堂が使ったばかりの脱衣所は暖かく、シャンプーかボディソープか、先ほど御堂からも香ってきた芳香が漂っている。
浴場に入るとその香りは一段と強く本多を包む。

シャワーを浴びる御堂の裸体が脳裏を過った。

厄介なことに、記憶ではなく、妄想だ。
ブンブンと頭を振って、記憶に無いはずの裸体を追い出す。



いつからだろうか。



御堂がふと見せる無防備な表情や意外な一面に気持ちの高揚を感じ始めたのは。

そして、以前は自分に見せていたであろう表情を想像しては胸に痛みを覚え始めたのは。





本多は恋をしていた。







二度目の、恋。

そして、決して叶わぬだろう片恋。








思い出の場所で御堂が“自分”を想って見せる表情に感じるのは、嫉妬だと、最近自覚した。
嫉妬している相手は、他ならぬ自分だ。


自分が知らない、自分。



(救いようがねぇ・・・)



御堂はいつも、自分を通して“彼”を見ている。
愛しそうな表情も、切なげな表情も、熱を孕んだ視線も、素通りして“彼”へ一心に注がれているのだ。




(でも俺だって、アンタが恋してる本多憲二だ・・・)




何種類かあるシャンプーを手に垂らす。
幸か不幸か、先ほど御堂が使ったものと同じだったらしい。

また、見たことがあるはずなのに記憶に無い、御堂の裸体を脳が根拠無く作り出す。



衣服の下の肌は、見えている部分と同じく白く滑らかだろうか。

あの端正な顔は、自分が与える快楽にどう蕩けるのだろうか。



シャンプーを載せた手が下肢へと向かう。
「っ、う・・・」
閉じた瞼の裏で、御堂が淫らに喘ぐ。



だがその裸体も、肌の感触も、甘やかな声さえも・・・自分は知らない。





虚しく自身を扱きながら、本多は自分という存在が酷く曖昧なものに思えた。





佐伯や片桐と接しているときは感じなかった不安が止める術も無く膨張していく。










誰かに今の“自分”を認めてほしかった。













(誰か?・・・違う、俺は・・・・御堂さん、アンタに、ちゃんと“俺を”見てほしいんだ・・・)

















密かな動機はいっつもツンツンしてて本多に素直になってくれない御堂さんに片思いを経験させてみよう!という欲望です(笑)
特殊なシチュエーションでないと切なくすれ違うなんて高度な芸当は本ミドでは出来そうにないし(ぇ
まあ、本多は相変わらず犬扱いなんですが(爆)