会議室に入った御堂は数度目を瞬かせた。
部屋にいるのはMGNの社員だけで、当然御堂よりも早く来ているべきキクチの面々が見当たらなかったのだ。
一瞬止まりかけた足を動かして自分の席に向かいながら形のよい眉が寄せられる。
表に顕れた表情は僅かであったが、時間に厳しい彼を良く知っている部下たちはキクチの社員の遅刻のせいで胃が擦り切れる思いだ。

プロトファイバーの好調を受けて再び立ち上げられたキクチ八課とのプロジェクトで、今日はキクチの営業戦略を詰めるのが主な議題である。
つまりは彼らがいなければ全く持って話にならないのである。

時計は会議開始五分前を指している。
MGNの社員たちは席に着きながら数秒おきに時計を見る。
御堂の眉間の皺は深くなっていくばかりだ。
そもそも今まで一度も遅刻も駆け込みもなかったというのに今日に限ってどうしたことか。
しかも今日来るはずの三人が三人ともいない。
「・・・誰かキクチマーケティングに連絡を取れ。」
馬鹿の一つ覚えのように時計ばかり見ては苦い顔をしている社員たちの耳を御堂の声が打つ。
「あっ、はい、今すぐに!」
わたわたと立ち上がる社員に御堂がため息を漏らしたときだ。
御堂の携帯が鳴った。
ディスプレイを見て柳眉が片側だけクと上がる。
「御堂だ」
おそらくはキクチの誰かからなのだろう電話の成り行きを社員たちが見守る。


その視線の先で、御堂の顔色がサッと変わった。



「何っ?・・・そう、ですか。わかった。今日のミーティングは延期する。
 ―――いや、貴方はそこにいてください。警察には佐伯を行かせて貴方は私を待っていてください。詳しい話はそちらで聞きます。」



警察という単語と何事か起こったらしい不穏な雰囲気に社員たちの不安げな視線が交差する。
御堂は電話を切るとミーティングの延期を告げ、足早に会議室を後にした。











「こちらでよろしいですか」
タクシー運転手の声で御堂はチェックしていた書類から顔を上げた。
窓の外を見るとエントランス前に停車しているようで、外来受付に向かう人や車椅子を押す看護師などの姿が目に入る。
ちらりと上を見れば片桐に告げられたのと相違ない病院名が見えた。
そして探すまでも無く、入り口付近で右往左往する見知った人間を見つけた。

「片桐課長」

歩み寄りながら名を呼ぶとハッとしたように彼が振り返る。
「あっ、御堂部長!」
途方にくれたような表情が、御堂を認めた途端安堵に変わった。
相変わらず呆れるほど表情の変化が分かりやすい。
「お待ちしていました!こんなこと初めてなので、どうしたらいいのか分からなくて・・・
 御堂部長に連絡をいれるのも佐伯君に言われて漸く思いついたので連絡が遅くなってしまって・・・」
「それで、何があったか教えてください。」
しどろもどろに成っていく片桐を御堂がさえぎる。
「あ・・・すみません」と申し訳なさそうにしてからその場で話そうとする彼を「病室まで案内してください」と促し歩きながらしゃべらせた。
靴音を響かせながら歩く御堂とそれを追いかけるような歩調で歩きながら説明をする片桐に周りがチラチラと視線をやる。

「場所はMGNに向かう途中の交差点で、僕たちは青信号で渡っていたんです。そこへ車が突っ込んできて」

「それで轢かれたんですか?」
「いえ、違います。そのときはもう僕たちはあらかた横断歩道を渡り終えていて、
 急ブレーキが聞こえたので振り返ったら、中学生くらいでしょうか?女の子がいる辺りに車が突っ込もうとしていたんです。」
こちらです、と片桐が示したエレベーターに乗り込む。
「それを彼が助けた?」
「そうです。僕はもう何が起きたのかさえ分からなかったんですが、気づいたときには本多君が女の子を庇った姿勢で地面に倒れていて・・・」
片桐は話しながら、その時の様子を思い出したのかブルリと身震いした。
顔が青い。
「ちゃんと見ていた人間はいなかったんですか」
「佐伯君は良く見ていたようです。どうやら本多君は女の子を抱きかかえるようにした体勢で車に撥ねられたようで・・・」

では佐伯を警察に同行させたのは正解だったか、と御堂は心内で呟いた。

「では本多に過失は無いんですね?」
確認するように聞くと、片桐がサッと顔色を正した。
そしてしっかりと御堂の目をみて頷く。
「本多くんは信号無視の車から女の子を守ろうとして車に轢かれただけで、彼に過失はありません。」
「それを聞いて安心しました。それで、容体は?」
目的階で扉を開けたエレベーターから降り、なおも会話を続ける。
どうやら片桐はこの短時間でフロアの看護師たちと話でもしたようで、御堂に視線を向けてくる何人かに会釈をしている。
「外傷は右腕の骨折と右足の骨にヒビ以外は擦り傷で、骨折のほうも全治にそう時間は掛からないそうです。
 先ほど脳のほうも検査しましたが、損傷などはありませんでした。ただ・・・」

「ただ?」

本多憲二様とプレートのある病室に入る直前に片桐は御堂の短い問いに答えた。


「記憶喪失を起こしています」


ぴたりと御堂の足が止まる。
片桐が一拍遅れて歩みを止め、病室のドアに置いた手を下ろした。
御堂からの無言に問いを汲み取り、片桐が口を開く。




「日常生活に必要なことは覚えているようですが、人の記憶は・・・肉親を除く全ての人のことを忘れてしまったようです・・・」



「・・・・」
御堂は数瞬沈黙してから病室のドアを開けた。
四つ置かれたベッドのうち窓際のベッドに本多がいた。
仰々しく包帯を巻かれて吊り上げられた腕がセオリー通りと言えそうな光景を演出しているが・・・肝心の本人は。

「あ、片桐さん帰ってきたんですか!」

記憶障害など全く感じさせない何時も通りの快活さで片桐を呼んだ。
殺しても死なない男だとは思っていたが・・・と御堂は苦笑する。


だが、見慣れたブラウンの瞳が御堂を見てそこに浮かべた感情は困惑と・・・僅かな警戒。


「えっと、そっちの人は?」

恐らくは、知らない人間に対する本能的な反応なのだろう。
そう分かっているのに、御堂はとっさに言葉を返せなかった。
「あの、俺いろいろ忘れちゃってるみたいで・・・」
「・・・聞いた。」
自分でも驚くほど普通の声が出たことに安堵する。
「私は御堂孝典という。君のいるキクチマーケティングの親会社MGNの者だ。君や片桐課長が担当してる商品のプロダクトマネージャーといえば分かるか?」
本多はそれで合点がいったようだった。
確かに知人の記憶以外は正常らしい。

「ああ、なるほど・・・え?ってことは、上司なんですよね?」

「そうだな」
なにやら思い立った風の彼に頷いてやると、急に彼が姿勢を正した。
そして、深々と頭を下げるではないか。



「っ、すみませんでした!忘れてるとはいえ失礼な口の聞き方をしてしまって!」






「・・・!」






後頭部を鈍器で殴られた気がした。




自分の名を聞かれたときよりも何故か、自分に向かって、礼儀正しい態度を取った本多をみて実感した。
彼の中に自分がいないことを。




「・・・・・・いや、かまわない・・・」






やめろ、君らしくも無い。

私がいくら苦言を呈しても、君があの態度を治す必要なんてない。






とりあえず無事を確認できたからと言い、御堂は逃げるように病室を後にした。
上座の人間に対するような本多の態度が耐えられなかった。

上司というなら片桐とて同じはずだが、彼が病室に戻ったときの様子は普段どおりだったではないか。


(何故私にばかり、よそよそしい態度をとる・・・?)


それに御堂はただの上司ではない。
プライベートでは彼の恋人でも有るのに。


御堂は病院を出ると、苦虫を噛み潰したような表情でタクシーに乗り込んだ。











結局本多は翌日には退院して自宅療養ということになった。
利き手と右足が使えない不自由を補うため、佐伯や片桐が家に行っているらしいと聞いたが、
御堂は病院で顔を合わせて以来彼に会おうという気分にもならず、静観していた。
医者の話では長く掛かるのか直ぐに戻るのか分からないということだが、どうせその内戻るのだからと御堂は自分に言い聞かせる。

そのまま何事も無く本多の記憶が戻って、また日常に戻るまでのことだと。


しかし。


「・・・」
その日、渋い表情で御堂は本多の部屋のインターホンを鳴らしていた。
帰りがけに仕事上のトラブルに見舞われた片桐に役目を押し付けられたのだ。
タイミングが悪かったとしかいいようがない。
そばにいた、事情を知る人間は御堂だけで、八課総出で対処しなければならない規模のものだった為に片桐が頼れる者が彼しかいなかった。

いっそのことMGNも巻き込む問題であれば良かったのにと御堂は不謹慎にも悪態をついた。


『はい!片桐課長っすか?』


明るい声がスピーカー越しに御堂の耳を打つ。
この快活な調子が以前のように硬くなるのかと思うと、御堂は鉛を飲み込んだような気分になる。


「いや・・・MGNの御堂だ。片桐課長の代わりに来た。」
努めて普段どおりに言う。
予想通りのリアクションが帰ってきた。
『へ?え、なんで・・っ、て、すみません態々!!い、いま開けます!!』


御堂はとっさに、手にしていた合鍵をポケットに放り込んだ。



聞かれて説明する苦痛から無意識に逃げたのかもしれない。



そう思い当たって眉を顰めたとき、目の前のドアが勢い良く開いた。

「あ、こ・んばんは。お忙しいのに面倒かけてしまってすみません・・・」
「いや・・・」


ああ、まただ。


本多の瞳を見た御堂はあの日と同じく、彼が自分との間に築いた壁を見て憂鬱な気分になった。
このまま食材だけ渡して帰りたかった。
だが右手を吊った状態で、右足も庇わなければならない彼に自炊させるのは酷だ。
なぜレトルトにしなかったのかと片桐に心内で苦言を呈しながら「あがってもいいか」と聞いた。
すると本多の目が丸くなる。
また、御堂の胃が重くなった。
それでもポーカーフェイスを崩さずに、手にした袋を掲げて見せる。
「片桐課長は材料しか買っていなかったんだ。君は作れないだろう。だから、上がってもいいだろうか。」
「え、いや、でも・・・」
「・・・・・・上司だからと遠慮するのは、言っておくが、今更だ。」
御堂のポジションを意識しすぎて遠慮している様子の本多に焦れながらも落ち着いてそういう。
「へ?」
「君が私に今のような畏まった態度を取ったことはない、といえば分かるか?」
「え?あ、そうなんですか???」


(何故こうも、ここに入るだけで時間が掛かる・・・)



ドアの前で虚しく過ぎていく時間が御堂の心をチクチクと刺す。



今まで一度として、この男のテリトリーに入るのに壁を感じたことも拒まれたことも無かった。

むしろ、渋る御堂を自分の領域に引きずり込むように入れた男のはずなのに。



「・・・いい加減入れてもらえないか。私も暇ではないのだが。」
他人のように扱われる不快感から思わず、棘のある声が出た。
「っ、あ、そうですよね!す・・・すみません、どうぞ、散らかってますけど・・・」
「・・・・・・・・失礼する」
記憶の無い本多に苛立ちをぶつけるのは間違っていると、頭では分かっていても険のある声が直らない。
御堂は短く断って本多の脇をすり抜けると部屋に入った。
部屋はいつも通りに御堂を迎える。


異質なのは、部屋の主だけだ。


まだ居心地悪げにしている本多を意図的に意識の範疇から追い出すと、御堂は淡々と食事の支度を始めた。
片桐が何を作ろうとしていたのかは聞かなかったが、袋から出てくる材料の豊富さからして何を作っても大丈夫だろう。
鍋やフライパンなど必要なものを何時もの場所から取り出す。
いつも一緒に食べているのだろうか?食材は二人分と思われる量だった。
いや、普通の分量でいけば三人前はありそうだが、内一人が本多なのだから、これは二人分と見ていい。
「・・・・」
病室で片桐に声をかけた時の本多の表情を思い出す。


胃が・・・いや、胃よりもっと深いどこかが、ぎゅうと締め付けられる気がした。


恐らくあの様子なら、全く普段どおりに和気藹々と団欒しながら食事もするのだろうと思う。
機械的に材料を切りながら御堂の気分は陰鬱となっていく。
本多の分だけ作って帰ろうか。
残りの材料で何か日持ちのするものを作って置いていけばいい。
二人で食卓を囲む勇気はなかった。
本多の声が掛かったのはそう決意したときだ。

「御堂部長とかなり親しかったんですね、俺」

完全に意識から排除していた声が急に掛かり、驚いて振り向くと本多が何か得心した表情で御堂を見ている。
怪訝そうな顔をしていたのだろう、本多が付け足した。


「いや、うちのキッチン使うの相当慣れてるみたいなので。」


「あ、ああ・・・」
何でもない風に調理を再開しながら、御堂は気が気ではなかった。
何故上司が、しかも親会社の上司が彼の家の台所を使い慣れているのかと聞かれたらどう答えればいいのだろうか。
絶対に聞かれるだろう。

なのに答えが思いつかない。


まさか恋人だ等と言える筈がない。




(言って、彼がショックを受けたら・・・私はどうすればいい)




背後で本多が息を吸う気配がして、御堂は身を硬くした。
だが、問われた内容は御堂の予想を大きくそれた。


「あの・・・俺もしかして前もこういう事して御堂部長に迷惑おかけしたんですか・・?」


他人行儀な声が恐る恐る紡いだ可能性に御堂は安堵した。
その嘘は最良かもしれない。
「記憶はなくとも、自分のこととなると流石に鋭いんだな。」
背を向けていられる体勢がありがたい。
恐らく今自分は無様なほど情けない顔をしている。
本多はそれで納得したようで、何度も面目なさそうな声で謝罪している。


手だけは手際よく料理を作りながら、御堂は虚しかった。






自分たちが恋人同士であったことを知っている他人は一人もいなかった。
特に必死で隠していたわけでもないが、機会も理由もないのに他人にいう事でもないと思っていたから。


だがこういう事態になって初めて、御堂は、理解者がいればと思った。


本多の記憶が無くなり、恋人であるという記憶を持つ人間は御堂だけ。






思い出は確かにあるのだ。

なのに、共有する相手を失ったそれはまるで夢か妄想のように実態のないものに思えてくる。







「でも俺と御堂部長が親しかったなんて意外です。」
テキパキと料理を作る御堂を見ながら屈託なく本多が言う。
御堂は聞くともなしに聞いたのだが。
「なんか、俺と結構長い知り合いだったっていう克哉とか、あと片桐さんとかは、
 知人だったって聞かされてそうかなって直ぐ納得できたんですけど御堂部長はそんな感じがしなくて」
「本――」
「俺とか克哉とか片桐さんとかと全然空気が違うって言うか・・・あ、でも克哉は結構冷たい感じか・・・でもなんか近くにいたって分かるんですけど」
それ以上は聞きたくないと遮るための声は本多にかき消される。

耳をふさげるものならそうしたいのに、それをする間を与えず、本多の残酷な本音が続く。



「御堂部長は住んでる世界が違う感じがするんですよ。」

「俺が近づきそうにないタイプだし」

「性格も全然違うでしょう?共通点がなさそうとでも言えばいいのかな」

「だから、結構親しいって知ってかなり意外です」



「―――本多」



「はい?」
コトン、と御堂は本多の前に出来上がった皿を置いた。
「残りは冷蔵庫に入れた。片桐課長は何日分か料理を作っていくつもりだっただろうが私は時間がないからこれで失礼する。
 彼に伝えておくから、明日にでもまた作りに来てくれるだろう。」
「御堂部長?」

感情を押しつぶしているような声で言う彼の表情が見えなくて、本多は顔を覗き込もうとするが、フィと反らされて叶わなかった。

置かれた皿は一つだけだ。
「食べていかないんですか?」
その問いに一瞬御堂が顔を上げた。
だがそこに有るのが“片桐さんとかはいつも食べていくのに何故?”という純粋な疑問だけだと知ってまた目をそらす。
「・・・私はもう済ませてある。」
それだけ言って、手早く身支度を済ませる。

どこか釈然としない面持ちの本多を置いて玄関に向かうが、とめる声はなく。


「あの、ありがとうございました!お気をつけて」




良く知った声で紡がれる全くの他人のような言葉が、御堂の背中にコツンと当たって、痛かった。













愛車の運転席に座った瞬間、御堂から力という力が抜けた。
ハンドルに力なく顔を埋める。

視界に入った助手席で何時ものように笑う大きな男が見えた気がした。




『俺、御堂さんのことが好きです』

『ちょっとはこう、甘えるとか、優しくするとかしてくださいよ、恋人なんすから』

『あ、ひでぇ!素直じゃねぇな相変わらず・・・』


『いや、なんか嬉しくて。あんたがそこでそうやって、俺と一緒にいて笑ってくれてるの。』




同じ声、同じ顔。

でも、今の彼の中には・・・親会社の上司である御堂孝典しかいない。




『全然空気が違うって言うか』

『住んでる世界が違う感じがするんです』

『近づきそうにないタイプだし』

『共通点がなさそうといえばいいのかな』




鼻の頭がツンとして、ごまかすように上を向く。

彼の言った通りだ。
付き合う前の自分からすれば、今の状態は理解不能だろう。

水と油とでもいうべきか。

そもそも会った瞬間からお互い印象は最悪だったのだし。



根本的にいろいろなところが違うのは、今更言うまでもない。





それでも・・・







「それでも、お前は・・・私のことを好きだといって笑っていたのだ・・・・」






















黒猫になる御堂さんとか妄想してたはずが何故か突発的に降りてきて結末も考えないままに書いてしまったですよ記憶喪失!!
こんな暗い本ミド需要あるんだろうか・・・真冬の〜だってもう少し随所に明るいシーンがあったのに・・・。
不評だったらサーバーの闇に葬ろう・・・。