「おはよう、佐伯」


「佐伯?まだ寝てるのか、遅れるぞ」


「佐伯早くしろ、朝食が冷める」


「佐伯、ちょっと待て・・・ネクタイが曲がってるぞ、ちがう、逆だ。それでいい。」



「今日の――社との交渉はお前に任せるから頼んだぞ、佐伯・・・おい、何だその締りの無い顔は。」
「え?」
会社の入ったフロアへ降りるエレベーターの中、腕時計に目を落としながら言っていた御堂がふと顔を上げ俺を見て眉を顰めた。
どうやら知らぬうちに口許が緩んでいたらしい。

まぁ、当然か。
そう思いつつ、ニヤリと笑って見せる。

「すみません、つい。御堂さんがあんまり美人なもので。」
茶化すような言い方に御堂の眉間の皺が一層深くなる。
それで終わればいいのだろうが、お約束どおり、頬に薄っすら朱が刷かれた。
「っ、お前は・・・」
自分でもそれが分かったのだろう。
恨めしそうな顔で睨んでフィと前を向いてしまった。

それを見てまた、やんわりと口許が綻ぶ。


本当に、幸せだ。

この人がこんな柔らかな表情で自分の隣に居てくれる。


そして、俺の名を、呼んでくれる。
俺を魅了して已まないその唇から涼やかなその声音で紡ぎだして。


とても温かな感情を乗せて。



「佐伯」と。

本当に稀に、克哉、とも。



エレベーターが目的のフロアに着き、既に出社していた社員たちに挨拶をしながらオフィスを横切っていく。
さりげなく御堂を前に歩かせ、眩しいその背中を見つめながら歩くのが好きだ。


凛と気高く、なにものにも屈しないかのように真っ直ぐ伸びたその背筋。

一度それを彼の誇りごと圧し折ろうとした。

その行動の核にあった感情に気付いたときは遅すぎたと思って、手放した。
もう、二度と目にする事も出来ないだろうと思っていた。


凍りつくような一年、誰よりも愛しい人が居ない極寒に耐えた。



一生耐え抜くものだと思っていたのに、この人は舞い戻ってきた。





そして、ここに居てくれる。





「佐伯、朝のミーティング前に渡したい資料がある。今出来るようだから少し待って居てくれ。」
途中で近寄ってきた社員と何か話していた御堂が振り返って言う。
「わかった」と返事をしながら、また頬が緩んだ。

なぁ、アンタ、気付いてないだろ。

朝起きてから今まで、何回俺の名前を呼んでくれたか。
それを俺がどんなに嬉しく思っているのか。

無意識に口に乗せてるアンタには分からないだろうが、アンタがそうやって俺の名前を呼ぶたび馬鹿みたいに喜んでるんだぞ。

名前を呼ばれただけでこんなに幸せを感じられるなんて、自分でも呆れる。


些細な幸せを喜ぶなんて下らないつまらない人間の現実逃避だと思っていたのに、あんたは無意識に、鮮やかに、俺の世界を塗り替えて行く。



出会って、どうしようも無く欲して、身勝手に傷つけた日々、アンタは俺の名前を滅多に呼ばなかった。
何度呼ばれたか・・・多分、片手の指で足る。

何の感情も篭もっていない声か、憎悪と殺意をこめた声か。




だから



『佐伯!』



雪の舞うあの日、背中から掛かった声に息が止まるかと思った。

俺を引きとめようと必死になった、焦ったような貴方の声に、心臓が跳ね上がった。







あの日からだ。

ただ名前を呼ばれるだけで、俺が馬鹿みたいに浮かれるようになったのは。







貴方が俺に向ける温かな感情の証のような気がして。








「佐伯、さっき言った書類だ」

開いたままだった社長室のドアを軽く叩いて注意を促し、御堂が入ってくる。
書類を差し出しながら、また、その唇が名を紡ぐ。

今なら言える。


書類のせいにして、アンタに感謝の言葉を。




俺を許してくれて。

俺の傍に居てくれて。


俺を愛してくれて。









「ありがとう、御堂」









「!」

何気ない佐伯の言葉に心臓が跳ねた。
書類を渡してその礼を言われただけのはずだ。

なのに、それ以上の何か深いものに対して感謝をされた気がした。

思わず目を瞠った私に佐伯が少し首をかしげる。
「出来ればミーティングまでに目を通しておいてくれ。」
何か問いかけられても答えがなくて、何も言わないうちに話を流した。
「ああ、わかった。ありがとう、御堂さん。」
「あ、ああ・・・」
踵を返して社長室を出る。

二回目の礼は多分、書類に対してだろう。


なにが違ったか、呼び方だ。
さんを付けたか付けなかったかではない。

そんなものじゃなくて、篭められた感情がはっきりと違ったのだ。



私の名前を呼ぶときほどアイツの感情が分かりやすいときは無い。

表情は幾らでも隠せるくせに、私の名前に滲む思いだけは一度として隠せた事が無い。



意図してやっているときもある。
許しがたい事に、それはアイツが私に不埒な悪戯をしかけるときなのだが・・・。

だが、本人も無意識に感情が滲み出るのだ・・・私の、名前に。

嬉しいとか、哀しいとか、怒っているとか、緊張しているとか。
案外、それに気付くとアイツの感情表現は可愛らしかったりする。
だがさっきのは何だったんだろうか。
思えば今朝は朝から妙にニヤニヤしていたが・・・。
悪戯を思いついたふうでもなかった。

ミーティングで社員に話す佐伯に変な所は無い。
私が神経質になりすぎているのだろうか?

・・・そうかもしれない。

アイツが私の名に乗せた感情に神経質すぎるほど鋭い。


それは、多分、アイツの機嫌の変化に怯えにも似た感情を抱いていた日々があるからだ。



自宅で職場で陵辱された記憶。
監禁されて、耐え難い快楽に苦しみ、何もかもを踏み躙られて死すら願った記憶。
あの頃、私の世界は悪魔のような男に支配されていた。

アイツの全てが怖かった。


アイツの息遣い一つで私は慄いていた。


私を痛めつけるためにアイツが姿を現すと、私の全てが集中したのだ、アイツの第一声に。
アイツの声に含まれる感情に。


今から自分がどう扱われるのか、察知したかったのだろう。

それを測る上で無意識に私が基準にしたのが名前だったのだと思う。


アイツが私の名前を呼ばない日はなかったから、わかりやすかったのだろう。




『御堂さん』『御堂部長』『御堂』

そう呼ぶアイツの声に神経を研ぎ澄ましていた。


今日は何時もより酷く扱われそうだとか、今日はそうでもないとか、恐らく今からの行為は常より執拗だとか。



まさに主人の機嫌を伺う奴隷のような必死さで感知していた。









その男を今私は、共に歩む相手として隣においている。


そして彼を誰よりも愛している。









二人の始まりを思えば我ながら理解しがたいと苦笑するしかないが。
だが今彼に抱く感情に嘘もごまかしも無い。







『御堂孝典・・・俺は、あんたの心が、欲しかった・・・』

あの一言が、ボロボロに切り刻まれ踏み躙られた心に張り付いて離れなかった。


痛めつけて、痛めつけて、その上で甘い言葉を吐いて私を落とす策略だと、思い込もうとした日々も確かにあった。



そう信じるに足る充分な仕打ちを受けていたのに、それでもそこに逃げられなかったのは、アイツがあの時私の名前を呼んだからだ。









それまで、嘲りとか蔑みとか揶揄とか害意しか感じられなかったのに、
あの日、あの時、朦朧とする私の耳を打った名には、今まで一度だって感じなかった何か温かで深い感情があった。









身体も心も、あの日々の恐怖を忘れたわけじゃない。


雪の日の再会から佐伯と過ごしてきた日々が優しく甘い記憶を降り積もらせても、その下に尚、あの日々の傷は残るだろう。




だが、それでいいのだ。








あの日々があったからこそ、私たちは今こうしているのだから。

あの日々があったからこそ、不器用なアイツの感情を呼び方一つで理解できるのだから。









「御堂さん、契約に行ってくる」
ひょいと私のオフィスに顔を出して佐伯が言う。
「ああ、健闘を祈る。」

もっと何かを期待していたのだろう『御堂さん』に、口許が緩む。
仕方ないな、本当に。

多分無意識だったのだろう、事務的な私の答えに佐伯は踵を返して出て行こうとする。


眼鏡の奥の瞳よりよっぽど素直な呼び方に免じて、甘やかしてやることにした。



「佐伯!」


口角が上がっていたのだろう、なんだか晴れやかな声が出た。
佐伯が全身で振り返る。

「昼までには戻って来い。一緒に食べよう。」

蒼い瞳が少し大きくなる。



憎らしい事にそれ以上表情は変わらなかったが


「出来れば、戻りますよ。じゃあ行ってきます、御堂さん」



出来れば、とか冷たく言っても無駄だぞ。





そんなに嬉しそうな声で名前を呼んで。















遠ざかって行く背中に御堂は柔らかく微笑んだ。
克哉は出口へとフロアを横切りながら、緩んだ口許を隠すために眼鏡のブリッジを押し上げる。



小さな幸せを胸に暖めながら。



















ゲーム中御堂さんって再会前だと一回か二回しか眼鏡の名前呼んでなかった気がします。だから多分御堂さんに名前呼んでもらえるの嬉しいだろうな、と思って。
再会後のメガミドをまともに書くの三回目ですが、うちのメガミドはどうも御堂さんより眼鏡がデレる傾向にあるらしい(笑)
なんとなく、御堂さんには無意識に甘える眼鏡を年上の余裕で甘やかしてて欲しい感じ。
眼鏡は御堂さんが一緒に居てくれるのがすっごい嬉しくて、でも表面上はクールに隠して余裕を見せてるつもりなんだけど、御堂さんは何も気づいてない振りしてちゃんと分かってて微笑ましく思ってるような(笑)
そんなコンセプトです。