「本多君」
定例のミーティングが今しがた終了したMGNの会議室。
御堂の声に「はい!」と威勢よく返事をして駆け寄る本多に周囲が「え」という顔をする。
数分前まで行われていた火花を散らすような二人の論戦は険悪とも評せる迫力だったからだ。
プロトファイバー以来MGN製品の営業担当は八課に回ってくることが多くなったのは御堂が八課を評価しているからに違いないが、
その御堂と八課の牽引役ともいえる本多の舌戦はあれ以来変わっていない。

未だ周囲からは犬猿の仲の手本だと囁かれているが、最近はどうやらただ仲が悪いだけでは無いとの見識も広まりつつあった。
二人の論戦が御堂の統計的な視点と本多の現場主義的な視線をうまくミックスさせて理想的な販売プランに仕上げる認識されて始めているのだ。


だが、それにしても二人のやり取りは苛烈に過ぎて、周囲は会議終了直後全く普通に会話する二人の切り替えについていけなかったりする。


「話がある。オフィスまで来たまえ。」
「今すぐすか?」
「ああ。早くしろ。」
「へいへい」

何時も通りの落ち着いたトーンとこちらも何時もどおりの軽快な調子の会話を交わし、二人が会議室を出て行く。
MGNの社員もキクチの社員も数度目を瞬かせてそれを見送った。








「で、話ってのは?」

御堂の執務室に入るなり、本多が切り出す。
それに御堂が分厚い資料を投げた。
「っ、と・・・T社の会社案内?」
「プラス、同社の社長に関する資料だ。経歴、雑誌のインタビュー、著書の抜粋、講演の内容、最近行った慈善活動の内容、その他。今日の夜までに読んでおけ。」
「うぇえ・・」
厚さ五センチはあろうかという資料の束を見て本多が呻く。
運ばれてきたコーヒーを手に向かいのソファに座った御堂に本多が顔を上げた。
「取引でもすんのか?」
当然理由も無く読まされるはずは無いだろうと聞けば御堂が首を縦に振った。
「今度の新商品はこことの共同開発になる。」
本多が目を丸くした。
T社は国内の有力な化粧品メーカーで、美容健康ドリンクの分野ではMGNのライバル企業だ。
事実、MGNの新商品にT社が新商品をぶつけてくることも多く、外資のMGNに国内メーカーの威信をかけて対抗している節がある。
本多の言いたいことが分かったのだろう、聞かれる前に御堂が回答を与える。
「今度T社が企画している新商品がうちの新商品に酷似している。成分まで、な。
 不自然なほど似ていた為に内部調査をしたところ、近日T社に移る予定の社員が情報を流していたことが分かった。」

「マジかよ!」

情報流出の事実に本多が声を荒げる。
大方己の引き抜き条件を良くする為にやったのだろう。
利己的な行いで他人の功績を踏みにじるやり方に本多は真剣に腹を立てた。

御堂が心血注いでプロジェクトを進めてきた製品だと知っていればまた尚更だ。

だが当の御堂がいきりたつ本多をいなした。
「そこはもう解決した。ここからが本題だ。」
「な・・・、わかったよ。で?」
「T社が我が社に先駆けてその商品を売り出したら損失は計り知れないと一時は製品の変更も考えたが、
 知ってのとおり今更変更しては冬の商品入れ替えに間に合うはずが無い。」
本多はうなづいた。
すでにキクチを交えてのミーティングに出される段階なのだ。
今から製品変更は御堂の手腕をもってしても不可能だ。
「だがT社に流れた情報には致命的な欠点があった。」

御堂は本多にニヤリと笑った。

「社員が持ち出したのはダミーの資料だったのだ。」
「ダミー?」
「ああ。以前別の製品で同じような事が起こって、その時は開発途中で変更が効いた為に製品を変更したが、
 以降同じ事が起こらないようにとダミーを作ることにした。外観も働きも一見なんら変わらない製品の企画書。
 だがその通りに作ると全く何の効果も無いものが出来上がる。」
もちろん、成分をきちんと調べれば効果が無いことは分かるが、情報の持ち出しを無効力にするには効果的な仕掛けだ。
「ん?それに引っかかったってことはプロジェクトのメンバーじゃなかったんだな?そいつ」
「当たり前だ。」
毎回信頼できる部下を選りすぐってプロジェクトを進める御堂だ。

本多が心配したのはその信頼した部下に御堂が裏切られたのではないかということだった。



一見冷酷に見える御堂だが、その実、実力を認めた相手は信頼してとことん育てる上司だ。
御堂は冷徹であっても冷酷ではない。

その彼が寄せた信頼を裏切られていたらと危惧したが、杞憂に終わったと分かって本多は心から安堵した。



「そこで我が社はT社にその事実を伝え、同時に共同開発の話を持ちかけた。
 T社は既に件の製品をプロジェクトとして発表しており今更取り下げるわけには行かないが、このまま進めても効果ゼロの馬鹿げた製品が出来上がるか、
 成分を一から練り直して冬から春の中途半端な時期の発売になるか、どちらにしても不利益ばかりだ。
 成分を練り直しても冬に我が社の製品が売り出されてしまえば二番煎じのレッテルを貼られるだけだからな。
 我が社としてはT社に共同開発という名の恩を売ることで今後T社に対して優位に立てる。というわけだ。」

本多はパチパチと目を瞬かせた。
「すげぇな・・・それ、御堂さんが考えたのか?」
当然、というように挑発的な笑みが返される。
「ただで見送るには勿体無い好機だったからな。」
「へー・・で、それと俺がT社の社長様の資料を読むのとどういう関係があるんだ?」
「今日の会食はあちらとの顔合わせだ。こちらからは私と専務が行くが、営業担当として君に来て欲しい。」
「俺!?」
「別に君が営業について発言する必要は無い。本来なら出席する必要も無いが、いい機会だから会社のトップと話す経験をしておくといい。」

営業代表と聞いて目を剥いた本多だが続いた御堂の言葉を消化するとニカッと笑った。


「わかった。サンキュ。」

「・・・別に礼を言われることじゃない。せいぜい恥をかかない様に気をつけたまえ。」


御堂は時々こうして本多に課題を与える。
それは御堂がビジネスマンとして本多を評価して育ててくれているのだと分かっているし、優れた先輩として御堂を尊敬している本多にとっては非常に嬉しいことだ。

御堂と付き合い始めたときに本多は決めたのだ。


公私共に、彼に相応しい男になる、と。


御堂は本多を手塩にかけて育てようとしている事実をいつも否定してくるのだが。
今もそらした頬が若干紅潮しているし、照れ隠しに違いなかった。



素直じゃねぇんだから、とこっそり笑ってから「よし!」と掛け声をかけて本多は立ち上がった。

「じゃ、これ終業までに読んどけばいいんだな!」
「ああ。会食は六時からだ。時間になったらビルの前に来い。」
「わかった。んじゃ、またな!」

御堂が折角与えてくれた機会だ、これを逃さず次の成長につなげなければ。



本多は勢い込んで執務室を出て行く。
活き活きとしたその背中を後ろから見守る瞳が本人も自覚せぬまま和んでいた。











本多は外回りの空き時間や移動時間などを使って御堂に渡された資料を念入りに読み込んだ。
そしてその甲斐あって、会食では大いに社長に気に入られ、会話が弾むこととなった。


「いや、MGNさんにはこんな頼もしい営業担当者がいたとはね!
 道理でいつも一歩先んじられるはずだよ。いや、気に入ったね!本多くんか。また話したいものだ!」

酒が入っていることもあるのだろうが、二件目に向かう途中でも社長は快活に本多を褒めた。
それに御堂が控えめな笑みを浮かべながら「うちの本多をそこまで買っていただけるとは光栄です」と返す。

一社の社長に褒められたことに加えて、御堂の言ううちの本多、という表現も胸に心地よくて、本多も上機嫌だった。




二件目で飲み始めるまで、は。




二件目は社長の行き着けだという銀座の著名なクラブで、別に席を設けていた大隈は一旦渋ったのだが(なにせ料金が料金だ)社長に押し切られる形で入店した。
以後、本多の機嫌は降下の一途を辿っている。



(なんで綺麗な女の人一杯いんのに御堂さんをとなりに置くんだよ!)
そう、社長はホステスではなく御堂を隣に座らせて話の相手をさせているのだ。
さすがにお酌は反対側に座った女性がしているが、手は今にも腰に回りそうだし、さっきから話す距離が近すぎる。
また御堂が平然とその状態でいるから本多は面白くない。

相変わらず上機嫌で本多に話題を振ってくる社長に何とかソツなく答えながらもさっきから内心イラついてイラついて仕方なかった。

「少し失礼します」
と、御堂が席を立つ。
その位置を埋める女性に社長が気を取られた隙に本多は大隈にあとを頼んで席を外した。
トイレに行けば、手を洗っていた御堂が鏡越しに目を合わせる。

表情で言いたいことが分かったのだろう。
苦笑気味に溜息をついた。

「怒るべきは私であって君じゃない。その私が黙殺しているんだから余計な気は起こすなよ。」
わかってんじゃねぇか、と本多がブスくれる。
「おかしいだろあの社長。さっきまでは全然そんなそぶり見せなかった癖によ。」
そう、一軒目のレストランでは全くそんな素振りは無かったのだ。
二軒目から急にである。
酒が入ったからかもしれないが、それにしても御堂を見る目付きが変わりすぎだ。
そういうと御堂は苦笑した。
「あの社長はその方向でも一部では有名だぞ。まあ、私が渡した資料には無かっただろうが。
 だが普段は取引先の人間に手を出すようなことはしない人だ。酒に酔って理性の砦が水漏れを起こした、とそんな所だろう。」
「あんたなぁ・・・」
自分がそういった対象に見られているというのにさも他人事のように言う御堂に本多があきれ返る。

大体、御堂はセクハラを受けて黙っているような人間ではないはずだ。
それを言うと鼻で笑われた。

「酒に酔った男に真剣に怒って手を捻り上げてどうなる?普段は本当に問題ない人物だというのは彼のことを調べた君もわかっているだろう。
 一時の思考のブレを糾弾して契約を潰すのは愚の骨頂としか思えないが?」


「契約!?この期に及んで契約かよ!」


思わず声を荒げた本多を御堂が静かに見据えた。

「いいか、君も一流のビジネスマンになりたかったら肝に銘じろ。仕事に席では仕事を基準に動け、とな。」
「んなこと言ったって」
今回のことは腹に据えかねる、と顔にはっきりと書いて本多は御堂を見る。

本多には御堂が己の尊厳を犠牲にしてまで仕事を優先しているように見えて仕方ないのだ。

御堂もそれが分かったのだろう。
やや口調を和らげて続けた。
「どんな場合でも仕事を偏重しろと言っているわけじゃない。今回のことを考えてみろ。
 第一に、この共同開発プロジェクトが成立すればMGNが上げる利益はそれこそ莫大なものだ。
 以後T社は我が社の商品に類似品をぶつける真似など出来なくなる上に、今回のプロジェクトで
 T社のノウハウをこちらに活かせればそれもまた大きな成果だ。創業以来日本の消費者の支持を受けてきたT社から、外資のわれわれが学ぶ点は多い。」

本多は言いたいことを呑み込んで感情を抑えると、御堂の言葉を待つ。

「第二に」


感情の制御がうまくなった、と内心褒めながら御堂は言葉を繋いだ。


「社長の今回の行動は酒に酔ったことによる感情のブレ以外の何物でもない。彼の性的趣向は先に述べた通りだが、いままで数十年、
 ビジネスにそれを持ち込んだことは無い。だからこそ保守的なT社で社長にまで上り詰めたんだ。
 仮に彼がビジネス上の相手に自分の性癖を強要したり、自分と寝ることを条件に契約をするような男だったら、私はどんなに契約が大きかろうと糾弾する。
 会社の業績がいかに素晴らしかろうと、そんなだらしない男をトップに据えている以上将来など高が知れているからだ。」
神妙に聞いている本多に御堂はふっと笑顔を見せた。
「ビジネスの席についているとき我々は会社の利益を背負っている。いつでも思考の中心に仕事を置いて、そこから見て考えるんだ。
 そうすれば詰まらないことで腹を立てて商談を潰したり損失を出したりすることが無くなる。
 仕事を中心に考えることと、自分を疎かにすることはもちろん違うが、な。」

「・・・わかった。目の前で他の男がアンタに色目使うのは気分わりぃけど、今の話はわかった。」

正直なやつだ、御堂は心の中でほほえましく思ってから本多の肩を軽く叩いてやった。


「さて、戻るぞ。」





そこまではまあ、よかったのだが。

頭で理解するのと実際経験するのでは全く違うもので。






席に帰って待っていた、更に酔っ払った社長の理性の水漏れはますます酷くなっていた。

「そうしたらその時にだね?息子が――」
上機嫌でしゃべる社長の手は御堂の腰に回ってさっきから這い回りそうだ。
「そう思うだろう御堂君!」
至近距離で同位を求める社長からやんわり顔を遠ざけ「ええ、そうですね」とにこやかに答えながら
御堂がさりげなく腰の手を外す、というのが先ほどから何度と無く繰り返されていた。
もう不快で不快で仕方ない本多は大隈に目配せして何とかするように頼むのだが、困った顔で返されるだけだ。
大隈も先ほどから御堂に代えて女性にその位置へ入って貰おうとしたりしているのだが社長が断固として御堂を離さない為に既に打つ手がないわけで。
女性に耳打ちして水割りの水の量を増やしてもらったり、酔い覚ましに水を飲ませたりはしているが、まさに焼け石に水状態だから仕方ない。
御堂は酔っ払いのすることと割り切っているからいいが、問題は本多だ。
大隈から見てもいつ堪忍袋の緒が切れるか危うい状態である。
大隈の目配せでそれを悟った御堂は溜息を付いてから、女性に水を貰った。
「社長、これ以上は明日に障るのでは?」
御堂が手渡すと素直に水を飲んだが、酔っ払ってはいても明日が休みだという事は忘れていなかったらしく、仕事は無いから大丈夫と大笑い。

流石の御堂も辟易してきてママに取り成しを頼んだときだった。


社長の手が、恐らく最初は純粋に御堂の腰から滑って下に落ち、そこに有った尻に行き当たって。




ムぎゅ、と。




揉んだ。






マズイ、と大隈が本多を見るのが先か。







水が入ったグラスが翻って、シャンデリアの光に煌きながら社長の顔を直撃し。









「てめぇ男のケツなんか揉んでよろこんでんじゃねぇよ!!!」










本多の怒鳴り声がゥワン…と響いた。




















賑やかだった店内が水を打ったように静まり返った。




















その後。
にこやかに「あとは私どもが」と言ったママに事実上は追い出される形になって、大隈・御堂・本多の三人は路上にいた。

御堂は静かに本気で怒っているし、本多は本多で謝る義理はないとばかり不貞腐れている。

大隈は溜息をついてから通りに向かって手を上げた。
「この件はあとでまた話そう。」
それだけ言うと止まったタクシーに乗って帰ってしまった。

暫くの無言の後、御堂が手を上げてタクシーを止めた。
そのまま一人で帰るかと思ったが。

「来い」

押し殺した声で本多を呼ぶ。


そして動かないと分かるとネクタイを力ずくで引っ張ってタクシーに押し込んだ。


「ってぇ!!何すんだよ!!」
「うるさい。怒鳴る暇があったら反省しろ」
「反省!?なんでだよ!!アイツあんたのケツ揉んだんだぞ!?目を覚まさせてやって何が悪ぃんだよ!」


「やっていいときと悪いときがあるとさっき言ったばかりだろう!一体何を聞いてたんだ!」


珍しい御堂の怒鳴り声に本多は一瞬ひるんだ。
それから少し黙り込む。


短く溜息をついて御堂が向けた視線の先に子供のような表情をした本多がいる。


理屈は分かっていても感情がついていかない、そんな顔だ。




暫くして、不明瞭な声が返ってきた。




「そりゃ、俺だって御堂さんがさっき言った事はわかった。けどよ、それと、目の前でアンタがセクハラされんの見るのじゃやっぱ違ぇんだよ。
 ・・・仕事中心に考えてたって、アンタが嫌な思いしてんのは変わらないだろ?そう考えたら、仕事だからって黙って見過ごすなんて出来なかったんだ・・・。」



叱られた犬のような風情でブツブツと言う本多に御堂は少し笑った。
タクシーの無線にまぎれて聞こえなかったそれを収めると態と冷たい声を出す。


「止めてくれ。私はここで降りる。」
「なっ、待」
キッと音を立ててタクシーが止まる。
万札を運転手に渡すとさっさと車を降りた。

「おい、御堂!!」

今まさに飼い主に捨てられようとしている犬、と、慌てて追いすがる本多に名をつけながら、
さっきの台詞を聞いて感じた嬉しさだとか暖かさとかは微塵も顔に出さず御堂は冷たく言い放った。


「明日朝一で謝罪に行く。君の常軌を逸した無礼を謝りに、な。遅れずに来い。」


そういって本多の鼻先で乱暴にドアを閉めてやった。


車体を叩けば心得てタクシーは走りだす。






別のタクシーを捕まえようと手を上げる御堂の口元はほんのりと綻んでいた。

















その頃本多は。



「ってことがあったんすよー・・・俺間違ってませんよね?!運転手さんだって目の前で恋人の尻揉まれたらぶっ飛ばすだろ?!」








運転手に管を巻いていた。









「はぁ・・・・・俺ってホント報われない・・・・」


と、ちょっと鈍感なことを呟きながら。
















これはラブラブ本御。
ラブラブ本御。
ラブラブ。
ラブr